2016年6月11日土曜日

巻4(5) 伊勢海老の高買

生きているものは何とかして食べていけるものだ。

世に住んでいる以上何事も心配し過ぎるのは損なことだ。

毎年世間の不景気によって生活が苦しくなり、誰もかれも困っているとはいうものの、それぞれ相応に正月の用意をし、餅をつかない家もなく、数の子を買わない人もいないのである。

台所の肴掛けに端午ブリやキジを掛けならべ、薪の置き場には巻を積み重ね、土間には米俵を積んで3月ごろまでの食いぶち用意をしておき、支払いは12月20日までに済まし、その後は賃金を取り立てるほうばかりに用意しておくといった手回しのよさを見ると、悪く言っている割には家計の内情がよいことが分かる。

また、帳簿上の収支決算は合っていながら、手元に現金がなく売掛代金を取り集めて、それで掛け買いの支払いをすますほど気ぜわしいものはない。

使用人に与える雪駄(せった:防水草履)もタビも大晦日の夜中過ぎになってから買い調えるのは浮世の義理にさし詰まってやむを得ずすることなのである。

年季奉公の下女や丁稚の仕着せに間に合わせの木綿縞の綿入れに白裏をつけて与えるような主人は、それが苦しい年越しをした証拠であったことが正月になって判るのである。

 いったい始末・倹約というものは、正月の支度がまず大事になるのである。

まだ我慢の出来る道具を新調するとか、家普請をするとか、畳の表替えや、かまどの上塗など、万事さっぱりするように気を配ると、ひとつひとつの費用は目立たないが、それが積もればその出費がひびいて一年中では大きな損失になる。

賢い人は、たいていのことは春や夏の日の永い時にするもので、その方が得なのだ。


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ある年の暮れに伊勢海老と橙が品切れになって江戸の瀬戸物町・須田町・麹町などを探しまわってみたが、諸大名の御祝儀用だという事で海老一匹を小判5両、橙一つを3両ずつに売っていた。

その年は上方でも品が乏しく、大阪などでも伊勢海老が銀2匁5分、橙が7、8分ずつもしたが、正月の祝い物だというので無理にも買い調えて蓬莱を飾った。

それにしても江戸に続いて大阪は町人の気持ちが大胆で後の事などあれこれ考えずにやるところである。

ここに摂津と和泉の国境にある堺の大小路のあたりに、樋之口屋という人がいたが、世渡りに油断なく、一生無駄使いをしたことがなかった。

だから「蓬莱を飾るのは神代このかたのならわしだからとはいえ、高価なものを買い調えて飾ったところで何の益もない。天照大神もおとがめにはなるまい」と、伊勢海老の代わりに車海老、橙の代わりに九年母を積んで、その色合いが同じで初春の気分に変わりはないので、「こいつは知恵者の新工夫だ」と感心して、その年は堺中こぞって伊勢海老・橙を一つも買わずにすました。

この町は人の身持ちが落ち着いていて、夢うつつにも算盤を忘れず、家計もつつましやかにして、見かけは綺麗にかまえて物事に義理堅く、またずいぶん品のよいところである。

けれども気苦労が多くて老け込みやすいところで、他の土地から行ってはちょっと住み着きにくい。

元日から大晦日までの予算を一度に立てて割り当て、その他は一文も無駄に使わず、いろいろな品物も年々こしらえるいうように、堅実な暮らし向きである。

男は紬縞(つむぎじま)の羽織一枚を34、5年も洗濯せずに着て、平骨の扇は幾夏も使っている。
女はまた嫁入りのときの着物をそのまま娘に譲り、孫子のにまで伝えて、折り目も崩さずに保存している。こ

ことわずか3里をへだてた大阪は、この堺とは別格の違いで、今日を満足に暮らせれば明日はどうなろうと構わず、その時々の栄花と思いきわめ、享楽的な人ごころである。

女はいっそう気が大きく、盆・正月・衣替えのほか、臨時に衣装を新調して惜しげもなく着古してしまい、それもほどなく針箱の中に入れる継ぎ切れとなって廃たってしまうものである。

堺は始末な生活で立ち、大阪はぱっと派手に世を送っているが、所によっての風俗が変わっているのもおもしろい。

それにしても身代のよい人はどこの国でも気楽に暮らせるものだ。どんなに利口そうな顔をしても暮らし向きの不如意な人の言うことは聞く者がない。

愚か者でも金持ちのする事は、正しいこととされるのであるから、頭のよい人が暮らしに困っているというのは口惜しいことだ。

「若い時に苦心して、精出して働き、老後の楽しみを早く知るがよい」とは、嘘をつかない大黒様のお告げである。

しかし、今ほどうまい儲けをさせないときは無い。金銀は昔よりも増えてしだいに多くなっているのに、誰がどこへしまって置いて見せないのであろうか、合点のいかぬことだ。これほど人の出ししぶる金銀をつまらぬ事にすこしでも使ってはならない。金のたまるのはもどかしいものだが、減るのは早いものだ。

ある時夜が更けて、樋之口屋の門を叩いて、酢を買いに来た人があった。その音は中戸を隔てて奥の方へかすかに聞こえた。

下男が目を覚まして「どれほどですか」と聞くと、「ごめんどうでしょうが1文ほど」と言う。下男は空寝入りして、その後は返事もしないので客はしかたなく帰って行った。

夜が明けると主人はその下男を呼びつけて、何の用もないのに「門口を3尺掘れ」と命じた。仰せに従って下男の久三郎jは諸肌脱いで鍬を取り、固い地面に精魂をつくし、汗水流してようやく掘った。その深さが3尺ばかりとなった時、「銭があるはずだがまだ出ないか?」と主人が言うと、「小石や貝殻よりほか何も見えません」と答える。

すると主人は「それほど骨折っても銭が1文も手に入らない事をよく心得て置いて、これからは1文の商いでも大事にしなさい。

昔連歌師の宗祇法師がこの堺のちにお出でになって、歌道がはやっていたときだったが、貧しい木薬屋ながら連歌をたしなむ人があって、人々を招待し、2階座敷で連歌の興行が催されたが、その主人が付け句する番になった時、胡椒を買いに来た人があった。すると主人は一座の人々にわけを話して座を立ち、一両の胡椒を量って3文の代金を受け取り、さて心静かに一句を思案して付けたのを「さてさて優雅な心がけだ」と宗祇がことのほかほめられたそうだ。

人は皆このように家業を勤めるのがほんとうに大事なことだ。わしもはじめはわずかな元手で一代でこうした分限者(金持ち)になったのは、家計のやりくり一つがうまかったからなのだ。

これを聞き覚えてまねたら悪いことはなかろう。たとえば借家住まいの人は毎日の収入の中から日割りにして家賃を他にのけて置くのがよい。借金もこのようにして、利息を一か月も重ねないように運用してゆけばいずれそのうちには、思いのまま商売が出来るようになるものだ。

借り銭の払い方は、儲けのあった時その半分をとりのけて置いて、銀1貫目の借金なら、毎年100目ずつでも返してゆけば、10年間で支払える。儲けた金を細かに計算もせず、他の金とごちゃまぜにしておいて、帳簿上だけで収支を合わせるようにする人は身上が薄くなるものだ。

自分の金ではあっても、小遣帳をつけるのがよい。買い物というものは、同じように買い物をしていてもだんだんと違いが出てくるものだ。商売のなかった日は少しでも銭銀を出してはいけない。よろずの品を通い帳によって、ツケで買い入れてはならない。その当座には目に見えないから、いつとなくかさんでしまい、支払いの時請求書を見て驚くものだ。

また家屋敷を抵当に置くほどの困った身代になったら、外聞などかまわず売り払ってしまうのがよい。どんなにしても取り戻したためしがないもので、利子が積もるばかりでついにはただ取られるようになるものだ。まだどうにかなる時、よく状況をふまえて家屋敷を売り払い、その地を去って考え方を変えれば、戸棚の一つも残ることになり、どうにかこうにか世渡りはできるものだ」と教訓したのであった。

さて、堺というところはにわか成金のひとはまれである。おやから2代、3代と続いて、昔買い置きした品物を今も売らないで、値上がりの時節の到来を待っているというのは、身代の基盤が強固なところであるからだ。

専売業の朱座の家は落ち着いており、鉄砲屋は幕府将軍家の御用人となり、薬屋仲間はしっかりしたもので、長崎への取引銀をよそから借りるような事がない。世間体は控えめに構えているが、また時によっては人がまねのできないことをしてのける。

たとえば南宗寺の本堂から庫裡に至るまで、一人で建立した人があるが、奇特なことである。心はともあれ風俗は都めいている。この前京の北野七本松で観世太夫の一世一代の勧進能の興行があったが、大判一枚ずつの桟敷を京・大阪に次いでは堺の連中が買い取った。

堺の人の物好きのほどもこれでわかる。奈良・大津・伏見の人も同じ町人なのだが、この桟敷を1軒も買わなかった。

口で言うのは簡単なことだが、町人の気前で大判金1枚をふんぱつして借桟敷を争い、すき間なく立ち並んで見物するというのは、これも千秋万歳の御大に住んでいるお蔭であろう。