2016年6月25日土曜日

巻2(1) 世界の借屋大将

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常にアンテナを張った情報集めと、合理的な倹約は大切というお話

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「賃借証明、室町菱屋左衛門殿の借家に住む藤市氏は、確かに1000貫目を持っています。」と借家証文に書いてある。

この藤市氏は「この広い世界で一番の金持ちは俺だ」と自慢していた。その理由に2間間口の商店の借家住まいなのに、1000貫目の財産を持っていたからだ。

このことは京都で評判になっていたが、たまたま烏丸通りにある28貫目の貸していた金の抵当権に家を当てさせていたのだが、利息がたまって抵当が流れて家が自分のものになり、家持ちになってしまった。

藤市はこれを残念がった。なぜならば、今までは借家住まいだからこそ金持ちと言われ続けてきたのだが、これからは家持ちになってしまったので1000貫目ぐらいでは、京都の一流町人と比較して大したものではなくなってしまったからである。

この藤市は利口な人間で、自分一代で金持ちになったのであった。

第一に人間は健康で堅実であることが世渡りの基本だ。

この男は家業の他にノートを常に持って店にいて、一日中筆を握って、両替屋の営業が通ると銭や小判の相場を聞いてノートし、米問屋の営業には米の取引相場の値段を聞き、生薬屋や呉服屋の営業には長崎の情報を聞き出し、繰り綿や塩、酒の相場は江戸支店から書状が届いたのを記録するという具合に、毎日万事の相場を書き留めておくので、分からないことはこの店に尋ねれば分かるという事で、情報屋として京都中から重宝がられた。

藤市の普段の身なりは質素で、大した服を着ていなかった。袖口が擦り切れないよう袖覆輪をしていたが、この人がやり始めて広まった。これで町人風俗の見た目が良くなり、経済的にもなったと思う。

また、大通りを歩かず、一生のうちに絹の着物を着たのは紬だけであったが、それすらも若気の至りと20年もの間悔んでいた。

礼服も汚れぬよう折り目正しくきれいに畳んでしまっていて、町内付き合いで葬礼には仕方なくお墓に野辺送りしたが、行列は一番最後に歩き、せんぶりなどの生薬の花を見つけると「これを陰干しにしておくと腹薬になるぞ」とただ歩くことはなく、けつまずくようなところでも火打石を見つけて懐にしまうのであった。

朝夕毎日ごはんをつくらなきゃならない所帯持ちは、万事このように気を付けるべきである。

この男は生まれつきケチなのではなく、万事このようなやり方を人の模範となりたくてやっていた。

これほどの金持ちになっても、年の暮れになっても家で餅をついたことはなかった。忙しい時に人手を使うことになることになるし、餅つきの道具を買いそろえる費用を考えると、大仏前の餅屋に注文して、1貫目につきいくらと値段を決めて注文し、すべて計算づくでやっていた。

ある年の12月28日の早朝に餅屋が忙しそうに餅をかつぎ込み、藤屋の店に並べて「受け取りお願いします。」と言ってきた。餅はつきたてで正月気分にもなりうまそうに見えたが、藤市はソロバンをはじいて忙しそうにしながらそれを無視した。

餅屋も季節がら忙しかったので何度も催促した。気の利いた社員が秤できっちり量り、餅を受け取って帰した。2時間ほどたって藤市が「今の餅は受け取ったか?」と聞くので、「さっき餅を受け取って帰しました。」と答えると、「この会社に働く価値のない奴だ。ぬくもりの冷めない餅をよく受け取ったものだ。重さを量ってみろ」というので、量ってみると水蒸気が抜けて目方が減っており、社員は呆れてまだ食いもしない餅に口を開けてしてしまった。

その年も明けて夏になり、東寺の付近の村人がなすびの初物を籠に入れて売りに来たが、初物を食べると75日命が伸びるという事から、これも楽しみの一つだと1つ2文、2つで3文と値段を決めるとみんな2つ買った。ところが藤市は1つを2文で買って言うには「あとの1文で、出盛りの時には大きいのが買える。」と、気を付けるべき点にぬかりはなかった。

屋敷の空き地に柳・柊・桃の木などを取り混ぜて植えておいたのは一人娘のためであった。よし垣に自然に朝顔が生えかかると、「同じ眺めるのであれば、漬物に出来るなた豆のほうがいい」と植え替えてしまった。なによりも我が子の成長を見るほどおもしろいものはない。

藤市も娘が年頃になったので、嫁入り屏風をこしらえてやったが、「京都の名所づくしの絵を見たら行きたくなるし、源氏物語や伊勢物語の絵だと浮気心がでてくるから」と、多田の銀山の最盛期の有様を描かせた。

こうした心がけから、みずからいろは歌を作って読み習わせ、女の子の通う寺子屋へもやらずに家で手習いを教え、ついに京一番の賢い娘に育て上げた。娘の方も親の始末・倹約ぶりを見習って、8歳で手習いを始めてから墨で袖をよごさず、3月の雛遊びをやめ、盆踊りおどらず、毎日髪も自分ですいて丸髷に結い、身の回りのことは人の世話にならず、習い覚えてきた真綿の引き方も、着丈の縦横いっぱいに行き渡るように仕上げるのであった。

とかく女の子は遊ばせておいてはならぬものなのだ。

織から正月7日の夜、近所の人々が、息子たちを藤市の家へ「長者になるための心構えの指導をたのむ」と言ってよこした。藤市のほうは珍しく座敷に灯火を輝かせ、そばに娘をつけておき、「路地の戸の鳴る時に知らせなさい」と言いつけておくと、娘は感心にもかしこまり、油がもったいないので答申を一筋に減らして待っていたが、訪れの声が聞こえてくると元の明るさに戻して台所に入った。

3人の客が座に着いたとき、台所の方ですりばちの音が高く聞こえたので、客はこれを聞いて喜び、1人が当て推量して「皮鯨の吸い物だろう」といえば、もう一人が、「いやいや正月はじめてきたのだから雑煮だろう」という。また一人はよく考えて、「煮麺にちがいない」といって話はそこに落ち着いた。

こんなケースでは誰もがついつい話してしまう内容だが、バカなことだ。

やがて藤市は座敷に来て3人に世渡りの秘訣を語って聞かせた。

一人が言うには「今日の七草といういわれはどういうことでしょうか」と尋ねた。「これは神代の倹約はじめであり、雑炊であるという事を教えてくださったのだ。」と答えた。

また一人が「掛け鯛を6月まで荒神様の前に置くわけは?」と言うと、「あれは朝夕に魚を食べずに、これを見て食った気になれ、ということだ」と言った。

また一人が、正月に太箸を使う由来を尋ねた。藤市は「おあれは汚れたときに白く削って一膳の箸で一年中済ませるようにしなさいということで、これも神代の二柱の神をあらわしたものだ。よくよく万事をお気をつけなさい。さて夜から今まで皆さんはお話なさったのだから、もうそろそろ夜食でも出る時間ですが、それを出さないのが長者になる心がけだ。先刻のすり鉢の音は大福帳の表紙に引く糊をすらせていたのだ。」と言った。