2016年6月5日日曜日

巻6(1) 銀のなる木は門口の柊

中国の文王の庭園は70里四方あったとかいうことである。

そうした広い園内の千草万木の眺めも、一間四方の空き地にひいらぎ1本植えて眺めるのも、わが屋敷と思えば楽しむ心の変わりはない。

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ここに越前の国敦賀の大湊に年越屋のなにがしといって、富裕な人がいたが、この土地に久しく住みなれて味噌・醤油を造り、初めは小資本の商人であったが、しだいに家が繁盛したのであった。

世渡りの万事につけて抜け目がなく、金持ちになったそもそものはじめはこういうわけだった。

山家へ毎日売っている味噌をどこの店でも小桶や俵をこしらえて入れるのでその費用が莫大である。そうしたときにこのおやじが新しく工夫して、世間の人が7月の魂祭りの棚を壊してお供えした桃や葉を拾い集め、それで一年中の小売味噌を包むことにした。

この利口なやり方を世間でも見習い、いまではこれに包まずに売るような国はなくなっている。

さて、ほどなく大屋敷を買い求めたが、その庭木にも花が咲いて実のなるものを植えて眺め、生垣にもクコ、ウコギのような役に立つものを茂らせ、萩は根こそぎにして抜き、もっぱら観賞用の風車などはやめて、実が食用となる18ささげに植え替え、同じつる草でも実益のあるものを好むのであった。

またクラゲを漬けた桶の不要になったのにも蓼穂を植えるといった具合に、目のつくほどのことで一つとして愚かな仕業はない。そして、かつてうえたひいらぎがやがて大木となって、今ではその家の目印となっている年越屋を、世間で知らぬ人とてはなかった。

節分の夜も疫鬼払いの「鬼の目突き」にこの自宅のひいらぎを用いるのは、買えば一枝1文の事であっても、一代のうちの失費を考えた上でのことであり、そんな考えに立って、13,000両持つまで取り葺き屋根のの軒の低い家に住んでいた。

そうしているうちに、ある時長男に良縁の嫁があって婚約するにあたり、仲人が薦めて内儀としめし合せ、京から当世風の衣装・織物をととのえ、世間からは笑われない程度の祝儀の酒樽を仕立て、人夫25人の肩を揃えて、先方へ送り届けた。

このときじつはおやじには角樽一荷に塩鯛一掛、銀一枚を結納に祝儀に送ると見せかけたのであったが、それどもおやじは費用が掛かりすぎてもったいないといわんばかりのおっくうそうな顔つきで、「銀一枚よりはかさばって見てくれが良いから銭3貫にしなさい」と言われたのであった。

これほどに世間の付き合いを知らぬ人であるけれども、ただ正直一途で今年60歳代になるまで暮らしてこられたのである。この質素な家から、このような結納を送ったのを奢りのはじめとして、今度は表の店を2階造りにする普請(建築)を望んだが、子供の言うことをなかなかおやじが承知しないので、息子は懇意な町内の人々を頼んだり、またはおやじと来世までもと親しくしている信心仲間や寺の和尚様まで頼みまわって説得し、ようやく願いが叶って工事にとりかかった。

そして、その土地ではひときわすぐれて棟が高く、思うとおりに造り上げて、以前とは見ちがえるようになり、毎日洗い磨きをするので店は光り輝くほどになったが、そのためか近在の山家の柴売りや百姓の出入りが絶えてしまい、商売がにわかに振るわなくなった。

仕込んであった味噌の捨て所が無く、醤油を流す川もないままに、手前から大勢の売り手を繰り出し、昔に変わらぬ風味を売り物にしたけれども、世間の人が皆悪く評判を立てたので、これも売れなくなってしまった。

そこで自ら商売を変えてみたが、しつけないことはあぶないもので、年々に大分の金銀を減らし、また商品の買い置きをすれば、その品は値が下がって損をし、鉱山に投資しては失敗し、またたたく間に残るものは家ばかりとなってしまった。

この家屋敷をやっと35貫目で人の手に渡すことになったのをおやじが嘆かれたが、息子がいうことには「時節の良い折に家普請をしておいたからこそ、このたびこれほどのいい値段で売れるのだ」と、こんな場合になっても役にも立たない自慢をしたものであった。

おやじが40年かかって稼ぎ出した身代を、息子は6年で使い果たしてしまったのである。

さてさて、金銀というものは、もうけにくくて減りやすいものだ。

朝夕そろばんに油断してはならない。「いったい店構えのよしあしについていえば、鮫皮・書物・香具・絹布といった贅沢品の商いは店飾りのゆったりとしているほうがよい。

また、質屋の店構えや食い物の商売は小さい家で気楽な感じなのが良いという事だ。長い商売を続けていて、客の良く出入りするようになった商人の家を普請改築してはいけない。」とは、ある見識ある長者の言葉である。

かの味噌屋は敦賀で呼び迎えた女房は離縁して浜辺の方に小さな店を出したが、これにも所帯を切り盛りする人がいなくてはと、その土地から女房をもらうことにした。

吉日を選んで結納を届けたとき、角樽一荷、鯛二枚、銭一貫文を送った。まだ繁盛していた時におやじをだますために見せた結納のことを、今思い出すのであった。

人みなが心得ておかねばならないのは世渡りのことだ。