2016年6月24日金曜日

巻2(2) 怪我の冬神鳴

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借金はするな。不測の事態に備えて貯金しておけというお話

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近江の琵琶湖のように大きい湖に沈めても1升の壺には1升しか入らない。

大津の町に喜平次という者が住んでいた。ここは北陸地方の物産の船着場でにぎやかな東海道の宿場なので、馬や駕籠を乗り替えて荷車をとどろかし、人足はせわしく働きづめのお土地柄である。ここなら蛇の寿司や鬼の角細工みたいな珍しいものを売ったって売り切れてしまうような活気があった。

近年ここの問屋町は皆長者のようになって、家の造りも昔と違って2階には三味線の撥音がやさしく聞こえて、柴屋町の廓から遊女を呼び寄せて、昼も夜も盛り上がっている。天秤の針口を叩く音が響き渡り、金銀もあるところにはあるもので、ここではまるで瓦や石のようなものである。

「人の身代ほど高低差のあるものはない」と喜平次は行商の荷桶をおろして、自分には現実にならないこの世の中をうらやましく思うのであった。

「自分が商いにまわる先々にも世間には所得差の差別があってうまくいかないものだ。賢い人はダサい素紙子(すかみこ)を着て、愚かな人がよい絹物を重ね着している。とかくひと儲けするというのは思慮分別とは関係が無い。

けれども、自分が働かないでは、銭一文にしても天から降ってくることも無いし、地から湧いてくることも無い。また正直にかまえただけでも埒はあかない。つまりは身に応じた商売をおろそかにしないことだ。」と、その日暮らしの生活を楽しんでいた。

関寺のほとりに、森山玄好と言う医者が住んでいたが、世間並みに薬の調剤も出来て、診察は老巧であった。

ある時のこと比叡の山風の寒さによるちょっとした風邪ぐらいの病であったのに全く薬の効かないことがあった。そのため門の案内を乞う声も絶えて、家の中では神農の掛け絵も身ぶるいし、煎じ薬の袋に「煎じよう常のごとし」と書いてあるとおり、いつも変わらぬ衣装であった。

医者も遊女の身と同じで、呼ばれなければ行くところもない。といって家にばかりいては恰好が悪いので、毎日朝の往診のころに外出して四宮神社の絵馬を眺めたり、高観音の舞台に行って、近江八景を眺めたりするのだが、それも朝夕いつも見ていてはおもしろくない。商売がうまくゆかず、暇のあるほどつらいことはないものだ。

人からは絵馬医者とバカにされて残念なことだ。そこである人が世話をして碁会所をはじめ、一番につけて3文ずつ茶代をとって、死なないだけが儲けものだと、どうにかその日を暮している医者もいるわけだ。

また馬屋町というところに、坂本屋仁兵衛殿といって、以前は大商人であったが、多額の銭をなくして、残るものとては家蔵だけとなっていたが、それを売って28貫目を手にして立ち退き、その後34回も商売替えするうちに使い果たしてしまい、今では何をするにも元手がなくなってしまった。

昔の上品な厚鬢も薄くなり、風采までおかしくなったので、「何一つうまくやれぬ男だ。貧乏神の神主にでもなれ」と親戚一門中がこの男を見限ってしまった。

けれども母親は隠居金が10貫目あったので、一人息子でもあったので不憫に思い、「せめてはこれを与えて生活費の種にさせたいものだが、仁兵衛に渡しては1年ももつまい。姉に預けて月に80目ずつ利息をもらい、これだけで5人家族の暮らしを立てなさい。」と言い渡した。

5人家族とは夫婦に子が1人、弟は仁三郎といってせむしでもあり、もう一人は仁兵衛に乳を飲ませた乳母が足が悪くなってほかに頼るところもなくこの家に厄介になっている。

家中見渡したところで出て行けと言えるものはいない。とはいうものの、10貫目の利息で80目取って、その5人暮らしは難しい。

この80目の銀を毎月ついたちに受け取り5匁の家賃を払い、白米の上等品と味噌・塩・薪を買いととのえ、いつもおかずはお新香だけで、その他にはどうしてどうして3月の安い鯛1枚も。松茸1斤がわずか2分の時も目に見るだけ。

喉が渇けば白湯を飲み、ネズミが暴れるのもかまわない。

盆・正月でも着物を新調することなく、年中倹約に身を固め、明けても暮れても不自由な暮らしである。

世間には商いの道を心得ているゆえに、100目に足らぬ銀で7、8人の家族を抱えて楽々と年を越す者もいるのだ。

また、松本の町に一人の後家がいた。

一人娘に振りそでを着せ、菅笠を数らせて田舎なまりを少し習わせて、「抜け参りの者にご報謝願います。」とお伊勢様を売り物にして、この12、3年も同じ嘘をついて世渡りしている女もいる。

また、池の川の針屋は、小さい身代のようだが、その娘を京都へ縁付したいという話を仲人のおばさんが聞きつけて、持参金を銀2000枚は付けるというので飛び回り「もうひと押ししたら銀100貫目までは付けてやることが出来ましょう」とささやいていた。「これにつけても人の家の内情は脇から見ては分からないものである。この大津のうちにもさまざまな家がある。」と醤油を売りまわる

先々で見聞きして、これを喜平次は家に帰って語るのであった。

この男の女房はずいぶん賢く、子供も身ぎれいに育て、人から借金もせず、正月の品物も12がつのはじめ頃から買いととのえ、「大晦日に帳面をさげた借金取りの顔を見ないで済むのは嬉しい。」と暮れの払いをさっぱりと済ましていたが、この幾年か支払いの残りの銭をかき集めても7匁5分か8匁残るぐらいで、ついに10匁を持って年を越したことはなく、「版木で印刷した若恵比寿のようにいつも変わらない我が家の年越しだ」と祝っていた。

ところが、定めのない空によってゴロゴロと冬の雷が12月29日の夜の明け方に落雷してたった一つの大事な鍋釜をこっぱみじんに砕かれて、嘆いてもしょうがないし必要なものなので、新しく買い求めたのだったが、その年の暮れにはその鍋釜を買った分だけの銀が不足したので、わずか9匁を24か所の店から少しずつ掛買して借りてしまい、借金取りのうるさい催促を受けることとなった。

「これを思うと予想が必ず外れるのは世の中の常識だ。俺も雷が落ちないうちは、世の中に怖いものなどなかったのに」と喜平次は悔しがったのであった。

  手に職があっても人の役に立たなければお金は入らない。借金はするな。不測の事態は必ず発生するので、ぬかりなくお金は貯めておけ。