2016年6月28日火曜日

巻1(3) 浪風静かに神通丸

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お金は、その人の思考パターンや性根によって増えたり減ったりするお話

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諸大名はいったいどんなよい種を前世で蒔いておかれたのであろうか?

万事につけて自由にふるまう様子を見たときこの世の仏のように幸せな方は大名の他にはいない。だからこそ世間では、大名の禄高を120万石とすると毎年500石取りの侍が釈迦如来入滅の年以来2000年の今日まで毎年禄をもらい続けてきたと計算してみても、未だにこれを取りつくさないという計算になると言っている。

大身、小身の違いはあるけれども世界は広いものだ。

近頃大阪和泉に唐金屋といって金銀に豊かな人が出現した。大船を作ってその名を神通丸と名付け、3700石積んでも船足が軽く、北国の海を自由自在に乗りまわして、難波の港に北国米を運んで商売し、次第に家が栄えたのは万事につけてこの男のやりくりが上手だからであった。

そもそも北浜のコメ市場は大阪が日本一の港であればこそであり、2時間ぐらいの間に銀5万貫目の立会いの取引もできるのである。その米は蔵々に俵の山と積み重ねられ、商人達は夕方の嵐でも朝の雨でも気を配り、日和を見合わせ、雲の様子を考え、前夜のうちに相場の予想によって売る人もあり、買う人もある。

1石について1分・2分の相場の高低をあらそい、人が山のように集まり、互いに顔を見知った人には千石・万石の米をも取引するのだが、いったん2人が契約の手打ちをした後は、少しもこれに違反することはない。

世間で金銀の貸借をする場合には、借用証書に保証人の印判まではっきりと捺して、「いつでも御用があり次第に返済いたします」などと定めたことでさえ、その約束の期限を延ばして訴訟沙汰になることがあるのに、このコメ市場では定めのない空模様のようにあてにならない契約をたがえず、その約束の日限どおりに損得をかまわず取引を済ますのは、さすがに日本一の大商人の太っ腹を示すものであり、またそれだけ派手な世渡りをしているのである。

難波橋から西を見渡した風景はさまざまにひろがっており、数千件の問屋が棟を並べ、蔵の白壁は雪の曙以上に白く輝き、杉の木の形に積み上げられた俵はあたかも山がそのまま動くかのごとく馬に積んで運ぶと、大道はとどろき、地雷が破裂したかのようである。

上荷船や茶船が数限りもなく川波に浮かんでいるさまは、まるで秋の柳の枯葉が水面に散らばっているようである。米刺しの竹の先を振り回しながら先を争って検査して回る若い者の威勢のよさはさながら虎の座る竹林のように見え、大福帳の紙をめくるさまは白雲の翻るようであり、そろばんをはじく音はあられのたばしるようである。

天秤の針口を叩く音は昼夜12の時を告げる鐘の響きにもまさり、家々ののれんは風にひるがえってその繁盛を示している。商人が大勢いる中に中の島の岡・肥前屋・木屋・深江屋・肥後屋等々がこの土地に久しく住んでいる金持ちで、表向きの商売はやめて金融業などで多くの使用人をかかえて豊かに暮らしている。

昔あちこちに住んでいたちいさな使用人たちもうまく出世すれば旦那様と呼ばれて履き替えの草履取りをお供に持たせて歩くような身分にもなるが、これらはみな大和・河内・摂津・和泉付近の百姓の子たちである。

それらの農家では、長男を家に残して次男以下を丁稚奉公に出すのであるが、鼻たれで手足の泥臭さが抜けないうちは豆腐・花柚などの小買物に使い走らされるのであるが、お仕着せの2,3枚もいただいて歳を重ねてゆくと自分の定紋をつけるようになり、髪の結い方を吟味し始め、風采も人並みになるにつれて、主人の供を仰せつかり、能や舟遊びにも召し連れられ、「行く水に数書く」と古歌にあるとおり、砂で手習いして字を覚え、足し算引き算も子守の片手間にそろばんを置いて習う。

いつの間にか角前髪の年頃になってからは、掛取りの銀袋をかついで出歩き、やがて順送りの手代見習いの身分になると、見よう見まねで主人の内緒の商売をたくらみ、儲けは黙って懐に入れ、損は主人に被らせて、肝心の身を固める時になってそれがバレてしまい、親や保証人に迷惑をかけ、使い込みを弁償しようにも金銀の出どころがなく、結局はそのまま示談で片がついて、行く末はしがない行商人の身の上となる者が数多くいる。

とかく人間は己の性根によって落ちぶれもすれば長者になもなれるのである。

一体大阪の金持ちは代々続いているのではない。おおかたは吉蔵や三助と言われた丁稚が成り上がって金持ちになり、羽振りが良くなって詩歌・毬・楊弓・琴・笛・鼓・香の会・茶の湯も自然に覚えて、上流の人とも付き合うようになり、昔の田舎なまりも失くなってしまうのである。

とかく人は境遇次第であり、公家の御落胤でもおちぶれて、造り花をして売るようになるのである。

これを思うに方向は、よい主人を選ぶのが第一の幸せである。そのわけは、繁盛しているところに奉公するのが必ずしもいいとは限らないからだ。

大阪北浜の過書町(金融街。東の兜町・西の北浜)のほとりに住んでいた指物細工人がいたが、この職人にも年少の弟子が2人いて、彼らは新屋九右衛門・天王寺屋五兵衛などといった大きな両替屋の、10貫目入りの銀箱をふだん作っていたのでその箱の寸法は覚えているものの、その中に入れるぎんはついぞ手に取ったことがなかった。

やがて、この弟子が成人して自分の店を出したが、元の親方と同様に鍋蓋や火打ち箱などの作り方以外には何も知らなかった。この者たちにしても、もしも同じ北浜の繁盛の土地にふさわしい大きい店に使われていたら相当の商人になったかも知れなかったのに、その始終を見ているとふびんでならない。

ことわざに「身過ぎは草の種」と言うように、世渡りの道という者は草の種のようにいくらでもあるのだ。

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この北浜に九州米を水揚げする際、米刺しからこぼれ落ちる筒落ち米を掃き集めてその日暮らしをする老女がいた。

顔がよくなかったので23歳で後家になり、後夫になってくれる人もいなく、ひとりだけのせがれの行く末を楽しみにみじめな年月を送っていた。

いつの頃からであったか、諸国の田租(税金)の率が引き上げられたので、諸大名の年貢米が増えて、この裏にも米船が大量に入港し、昼夜かかっても陸揚げしきれず、借り蔵もいっぱいになってしまい俵の置き場所もなくあちこち運び変えるごとにこぼれ落ちる米を、この老女はチリと一緒に掃き集めたのであったが、朝夕食べても食べきれない量になってきたので、溜めていたら1斗5升ぐらいになった。

欲を出して倹約してためてみるとその年の内に7石5斗まで増えたので、これをひそかに売って翌年はなおまたそのように増やしたので、毎年増え続けて20年余りの間にへそくりの金が12貫500目になった。

それからはせがれも遊ばしておかずに、9歳の頃から桟俵の廃品を拾い集めさせて俵で財布を作らせて、両替屋や問屋に売らせ、人の気づかないようなところで銭儲けしてゆき、やがてせがれは自分の腕で稼ぎ出し、のちには確かな人へ小判の1日貸しや、はした銀の当座貸しを始めたが、これから思いついて、今橋のほとりに両替屋を始めた。

すると田舎から出てきた人たちが立ち寄って両替するので暇がないくらい繁盛し、朝から晩までわずかの銀貨を店に並べて丁銀を小粒銀に替えたり、小判を豆板銀に替えたり、暇なく秤に銀貨を掛けるようになり、毎日毎日の儲けがつもって、10年もたたぬうちに両替仲間の一流になった。

本両替屋の弟子もこの男に腰をかがめ、機嫌を取るほどになった。

毎日の小判市場もこの男が買いだせば急に相場があがり、売り出すとたちまち下り目になるのだった。

そのため、自然と人々はこの男の意向をうかがい、皆々手をさげて、旦那旦那と敬った。

中にはこの男の素姓をとやかく言って「なんだ、あんな奴の言いなりになって世渡りするのは残念なことだ」という我を立てるやつもいたが、急に銀が必要な時はさしあたって困り果ててその人に借りるのであった。

全くそれらは金銀の威勢そのものという事である。

後には大名相手の御用商人となり、あちこちの屋敷に御用入りをもっぱらとするようになったので悪口を言う人もいなくなり、お歴々の町人と結婚して、家蔵をいくつも建てて、母親が使っていた筒落ち米掃きのわらしべ箒と渋団扇を「貧乏をまねくと世間では言うがこの家にとっては宝物だ」として西北隅にしまって置いていた。

諸国をまわってみたが、今でもまだ稼いでみるべきところは大阪北浜であり、ここはまだ流れ歩く銀もあるということだ。