2016年6月29日水曜日

巻1(2) 二代目に破る扇の風

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金持ちになっても、教育をしっかりしないと子供を不幸にしてしまうお話

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徒然草には「人の家にありたいものは梅・桜・松・楓」とあるが、それよりあってほしいものは金銀米銭であろう。

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庭の築山にまさるものは庭蔵の眺めで、そのなかに四季折々の商品を買い込んで値上がりを待つのは、これこそ現世の喜見城の楽しみだと決め込んでいる男がいた。

この男は、今のにぎやかな京の都に住んでいながら、四条の橋を東へ渡って祇園・八坂の芝居茶屋に近寄らず、大宮通りから丹波口の西の島原の廓へも足を向けなかった。

また、寄進などさせられないように、諸寺の坊主を寄せ付けず、浪人どもにも近づかず、少しの風邪気や腹痛は手製の薬で間に合わせ、昼は家業を大事につとめ、夜は外出せずに内に居て、若い自分に寺子屋で習っておいた小謡を両親に遠慮して地声でこっそりとうたい、自分ひとりのなぐさみにしていた。

しかも、灯火の光で謡の本を見るわけでもなく、覚えた通りにうたうだけで、無駄になることは教えられたとおり何一つしなかった。

この男は一生のうちに草履の鼻緒を踏み切ったことがなく、釘の頭に袖を引っ掛けて破ったこともなく、万事気を付けてその身一代に2000貫目もの大金をしこたまためこんで、88歳まで長生きしたので人々はそれにあやかりたいものだと、米寿にちなんで縁起物の米の升の表面を平らにする竹の升掻きを切ってもらった。

ところが、人の寿命には限りがあるもので、このおやじもその年の時の雨の降る頃ふとした病にかかったかと思うと、あれこれ気をつかう暇もなくポックリといってしまい、あとに残された一人息子がその遺産をまるまる相続して、21歳にして生まれながらの長者となった。

このせがれは親にもまして倹約を第一にして、大勢の親類に対しても箸一本の形見分けもせず、初七日の法事をすますと、はや8日目から店を開いて、商売大事に働き出した。

腹が減っては損だというので火事の見舞いにも早くは歩まず、ケチなことばかりに気をつかっているうちに、その年も暮れ、翌年になると、「去年の今日はおやじの年一回の祥月命日だ」というので、菩提寺にお参りをしたが、その帰り道ではいっそう昔のことを思い出して、涙で袖をぬらした。

「この手織り紬の碁盤縞の着物は、命知らずに長持ちするものだといっておやじ様が着ておられたものだが、思えば惜しい命であった。もう12年も生きておられたらちょうど100歳になる。若死になさって大分の損をしたものだ。」と寿命のことまで損得ずくで考えながら帰ってくると、紫野のほとりの御薬園の竹垣のそばで召し連れていた年季奉公の女が、お寺へ差し上げる精進料理用の時米を入れた空き袋を持った片手に封じ文を一通拾った。

取って見ると「花川様、まいる」と表に書いてあって、「二三より」と裏書し、飯粒で封をした上に念を入れて印判まで押し、なおその上に「五大力菩薩」と墨くろぐろと厳重に書いてある。

「これは聞いたこともないお公家衆の御名であろう」と思い、それからうちに帰って人に尋ねてみると、「これは島原の局女郎のところへやる手紙だろう」と読み捨てようとしたのを、「これも杉原の反故紙一枚の得。損になるわけじゃない。」と思いながら静かに封を開いてみると、1歩の金が一つころりと出てきた。

「これは」と驚いてまず試金石にこすり付けて質をしらべみて、それから天秤にかけて上目で量ってみると、1匁2分の重さきっちりあるので喜び、胸の躍るのをしずめて「思いがけぬ幸せというのはこのことだ。世間の人に話してはならない」と奉公人たちの口止めをしておいた。

さてその手紙を読んでみると、恋や情けはそっちのけで、はじめから「一つ何々」というような書き方で「金まわりの良くない時節柄の迷惑な御無心ではあるが、我が身にかえて愛しく思うお前様のことだから、春の給金を前借してお届けします。このうち銀2匁はいつぞや遊んだ時の勘定にまわして下さい。残りは皆差し上げますから、年々つもった借り銭をすましなさい。

いったい人間には、その身代相応の考えというものがあるものだ。

大阪屋の太夫野風殿に西国筋の大尽が菊の節句の入費といって、1歩金を300も贈られたのも私が前にあげたたった1歩金1つも志に変わりはありません。金がありさえすれば、なんで出し惜しみなどしましょう」と哀れな文章であって、読めば読むほど気の毒になってきて、「なんとしてもこの金を拾ったままにしておいてはおけない。

この金に込められた男の執念もおそろしい。だがこの男に返そうにも居所が分からない。いっそ行き先の知れている島原へ行って花川とかいう女郎をたずねて渡してやろう。」と思い立って、少しは鬢のほつれをなおしたりして家を出るには出たが、道々せっかく拾った1歩をただ返すのも惜しいような気もして、5度7度も思案しながら歩いているうちに、とうとう島原の門口についてしまった。

立派な門構えなのですぐには入りかねてしばらくためらっていると、そこへ揚屋から酒を買いに行く男がやって来たので近寄って、「この御門は無断で通りましても差し支えはござりませぬか?」と言うとその男は返事もせず、顎をしゃくって教えた。

それではと編み笠を脱いで手をさげておそるおそる中腰に身をかがめて、ようやく出口の茶屋の前を通って女郎町に入り、一文字屋の太夫唐土が、揚屋入りの道中姿でやってきたので近寄って、「花川様と申すお方はどちらでございましょうか」とだずねると、太夫は遣り手の方へ顔を向け、「私は存じませぬ」といって、すげないそぶりをするばかりであった。

遣り手は青暖簾のかかっている局女郎の見世を指して、「どこぞそのあたりで聞いてみなされ」と言うと、後についていた下男が目に角を立てて、「その女郎を連れてきてみろ、見てやろう」と言う。

「連れて来られるくらいなら、お前様方におたずねはいたしませぬ」といって後ろに下がり、あちこち尋ねまわってようやく捜し当てて、様子を聞くと、花川は2匁取りの安女郎で、この2、3日は気分が悪くて引きこもっていると見世の者が面倒そうに言うので、手紙を渡しそびれたまま帰ろうとした。

その時、ふと思いがけない浮気心が起こり、「もともとこの金は自分の物ではない。一生の思い出にこの金だけということにして、今日1日遊べるだけ遊び、老後の話の種にでもしよう。」と決心したが、1歩金だけでは揚屋町で上級の遊女である太夫と遊ぶことなどは思いもよらないので、出口の茶屋に行って、藤屋彦右衛門という家の二階に上がり、昼間の揚げ代9匁鹿恋女郎を呼んでもらい、呑み慣れない酒に酔って浮かれた。

ところが、これを遊びの手習いはじめとして、女郎と恋文のやりとりも覚え、しだいに遊びの格が上がって、太夫を片っ端から買いはじめ、折も折とて、都の太鼓持ちの四天王と呼ばれる願西弥七、神楽庄左衛門、鸚鵡吉兵衛、乱酒与左衛門の4人に仕込まれ、まんまとこの道の通い人となり、後にはおしゃれな道楽の身なりも、この男をまねるようにさえなって、扇屋の恋風様とおだてられて派手に散財した。

人の運命とは分からぬもので、色里に姿を見かけるようになってから4、5年のうちに、2000貫目の財産は塵も灰もなくなり、火を吹く力もなくなって、残った家名にゆかりの古扇1本を片手に門付となり、「一たびは栄え、一たびは衰うる」と、我が身の上を謡う、その日暮らしの身となってしまった。

そのなり行きを見るにつけ聞くにつけ、「近頃では儲けにくい銀を、よくもまあ使い果たしたものだ」と身持ちの堅い鎌田屋の何がしという金持ちが、子供らのいましめにこれを語って聞かせたという。