2016年6月15日水曜日

巻4(1) 折る印の神の折敷

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人と違うことを考えること、研究を尽して人のやっていないことを実現することが大切というお話

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「掛けたてまつる御宝前」と書いた大絵馬が、京都東山清水寺の御神前に掛かっているが、これは呉服所の何某が銀100貫目の身代を祈り、その願が成就したのでその名を記して掛けられたのだということだ。

今その家の繁盛を以前と見比べ、一代のうちに金銀もたまればたまるものだと、室町の呉服屋仲間ではもっぱらの評判である。

人は皆欲で固まった世の中だから、若恵比寿・大黒殿・毘沙門天・弁財天などの福の神に頼みをかけ、鰐口の緒に取りすがって元手を得たいものと願うのであるが、今は世知がらい時代になったので、そんな願いは叶いがたい。

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ここに桔梗屋という貧しい染物屋の夫婦が住んでいたが、商売を大事にし正直一途に工夫をこらし、少しも暇を無駄にしないで稼いでいたが、毎年餅つきが遅くなり肴掛けにブリもなくて正月を迎えることをくやしく思っていた。

人並に吉夢をねがって宝船を敷いて寝たり、節分の豆も本来「福は内」とずいぶん蒔くのだが、その甲斐もないのであまりの貧しさから考えが変わって「世間では皆福の神を祀るのがならわしだが、自分は一つ人の嫌っている貧乏神を祀ってやろう」と、おかしげな藁人形をこしらえて、柿渋染めの帷子を着せ、頭には紙子頭巾をかぶらせ、手には破れ団扇を持たせて、その見苦しい姿を松飾りの中に安置して、元日から七草の日まで、精一杯もてなした。

この貧乏神はうれしさのあまり、七草の夜に亭主の枕ものとにゆるぎ出て、「わしはこれまでの長い年月、貧家をめぐる役目で身を隠したまま様々な悲しいことの多い家の借り銭の中に埋もれて、いたずらをする子供を叱るにも「貧乏神め」とあてこすりをいわれたものだ。

かといって金持ちの家に行くと、いつも丁銀を量る音が耳にひびいて癪の虫がおきるし、また朝晩の鴨なますや杉焼きの贅沢料理が胸につかえて迷惑する。

わしはもととも、その家の内儀についてまわる神だから、奥の寝間にも入るのだが、重ね布団に釣夜着それにパンヤの括り枕などがこそばゆくなるし、白無垢の寝巻にたきこめた薫りにも鼻をふさぎ、花見や芝居見物でビロード窓の乗物に揺られて、めまいが起きそうになるのもいやだ。

また夜はろうそくの光が金ふすまに映りまぶしくてかなわない。それよりは貧乏な家の灯火の十年も張り替えない行燈の薄暗い光のほうがずっとよい。夜中に油を切らして女房の髪の油を間に合わせにさすなどといった不自由を見るのが好きで毎年暮らしてきた。

誰一人祀ってくれる人もなくほったらかしにされてきたので、かえって意地を張ることになって、いよいよそんな家を衰微させていた。

ところがこの正月にお前が心にかけてこの貧乏神を祀ってくれ、こうしてお膳の前に座って物を食うのは今までにこれがはじめてのことだ。この恩を忘れるわけにいかないぞ。この家に伝わっている貧乏な運命を、2代目長者の奢り者のほうに譲って、たちまちのうちにお前のところを繁盛させてやろう。

いったい暮らしの立て方にはいろいろあるが、柳は緑、花は紅だ。」と2度、3度、4度、5度くり返したが、それはあらたかな夢のお告げであった。桔梗屋は目が覚めてもこれを忘れず、ありがたく思いこんで「自分は染物細工を商売にしているのだから「紅」と言うお告げはまさしく紅染めのことであろう。けれどもこれは小紅屋という人がたくさん仕込みをしていて、世間の需要を満たしている。そればかりか近年はやはり紅色の「砂糖染め」を工夫した者もあり、深い知恵のある人が多い京の事だから、並々の事で儲けるなどとは思いもよらない。」と明け暮れ工夫を凝らしていた。

あるとき、まめ科の蘇芳で下染めをして、その上を酢で蒸しかえすと、本紅の色と全く変わらないものになることを発明した。

これを人知れずに染め込み、自分で荷物をかついで江戸に下り、本町の呉服店に売って、京への上りの商いには奥州筋の絹と真綿を仕込み、さす手引く手に油断のない、ノコギリ商いをして、十年経たないうちに1000貫目以上の金持ちになった。

この人は大勢の手代を置いて万事をさばかせ、自分は楽しむことに徹して、若い自分の苦労を取り返した。これこそほんとうの人間の身の持ち方である。

例え万貫目の銀を持っているからといって、老後までもその身を働かせ、気をつかって世を渡る人は、人の一生は夢の世のようにはかない事を悟らない人だから、いくら金を貯めても何の益もない。

さて家業のことをいえば、武士の中でも大名はそれぞれきまった世襲の領地があるから別に出世の願いはないわけだ。

けれども一般の侍(公務員)は親ゆずりの武士に支給された土地である知行、いわば位牌知行を取ってそのまま楽々と一生を送るというのは、武士としての本意ではない。自分の力で奉公を勤めて、官職や俸禄を進めてこそ出世というものである。

町人も親に儲けてためさせ、遺言状1枚で家督を相続し、顧客の信用を確保してきた親代々の商売を守り、そうでなければ家賃や貸銀の利息を勘定するだけで、あたらこの世をうかうかと送り、20歳前後から無用の竹杖をついき、置き頭巾をかぶって長柄の傘をさしかけさせて歩いたりして、世間の批判もかまわず分不相応な贅沢をする男を見かけるが、いくら自分の金を使ってするにしても、天命知らずというものである。

人は13歳までは分別のない子供だからいいとして、それから24、5歳までは親の指図を受けて働き、その後は自分の力で稼ぎ、45歳までに一生困らぬだけの基礎を固めておいて、そのあとは遊楽することが最高の理想である。

それなのになんということだ。若隠居などと称して男盛りの勤めをやめて大勢の奉公人に暇を出し、他の主人に仕えさせ、将来の出世を頼みにしていた甲斐もなくつらい目に合わせる奴がいるのだ。

町人の出世というのは、奉公人を立派にしたてて女房を持たせ、その家ののれんを大勢に分けてやることであり、これこそ主人たるものの道である。いったい3人暮らしまでは「所帯を張った身過ぎ」とは言わないものである。

5人暮らしから初めて「世渡り」というのだ。奉公人を一人も使わぬうちは「所帯持ち」とも言えない。

旦那と呼ぶ者もなく、朝晩の食事も給仕盆なしに手から手に受け取って女房に飯をもらせて食うなどは、いくら腹がふくれるのは同じだからといっても、口惜しいことだ。

このように同じ「世渡り」といっても格別の違いがあるものだ。これを思ったら暫時も油断してはならない。金銀は天下のまわり持ちでえあり、懸命に稼げば溜まらないものでもない。

この桔梗屋夫婦は、自分たちだけで働き出し、今では一家75人を指図する身となり、大屋敷を願いの通り構えて、7つの内蔵、9つの座敷があり、庭には万木千草のほかに、銀のなる銘木がはびこっており、住んでいる所はしかも長者町であった。