2016年6月3日金曜日

巻6(3) 買置きは世の心やすい時

毎年元日に遺言状を書いて、40歳以降はいつでも死を覚悟し、正直に世渡りしているうちに自然と金持ちになった、泉州堺に住む小刀屋という長崎貿易に携わる商人がいた。

この港は長者の隠れ里のような町で、底知れない大金持ちが無数にいる。

ことに名物記に載るような立派な茶道具類をはじめ、唐物・唐織などを先祖から5代このかた買い置きをして、内蔵におさめて置く人もいる。

また、寛永年中から毎年手に入れてきた金銀をいまだ一度も金蔵から出したことのない人もいる。

また内儀が14歳で嫁入りして、持参銀50貫目を持ってきたが、その時の10貫目入りの銀箱を封をしたまま重ねて置いて、その娘の嫁入りのときにこれを持たせて送り出した人もいる。

他の土地よりは勘定高く、しかも暮らし向きの内実がゆったりしているのがこの土地の風習である。

小刀屋はこうした資産家連中と肩を並べるほどの金持ちではないが、はじめに書いた遺言状では資産がわずか銀3貫500目であったものが、25年のうちに自分一人の才覚で稼ぎ出し、毎年遺言状の金額はふえて、いよいよ臨終のときに850貫目の現銀を一子に譲り渡した。

この人は世間の評判が良く、金持ちになる初めは、そのこと唐船が多く長崎に入港して、糸や綿が安値になり、最上等の緋綸子一巻の価格が18匁5分ずつに当たるようになったことからだった。

後にも先にもこんな安値のことはまたとあるまいと思い込み、懇意な友人に商いの望みを語って、一人から銀5貫目ずつ、十人から50貫目を借りてこの綸子を買って置いたところ、早くもその翌年これで大分の利益を得て、35貫目も儲けて喜んでいたとき、たった一人の息子がすべてもう手遅れといっていい大変な重病になった。

全財産を投げ出して治療したが、少しも効き目がないので、さまざまに心配して嘆いていると、ある人が、「まだ駕籠にも乗れず徒歩で回診する医者ではあるが治療の上手な人がいる」といって紹介してくれた。

その医者の手で危なかった病人を7分通り快復させることが出来たのだが、そのあとがはかばかしくないということで、一族が相談して、名医と言われる人に替えてみたところが、またぐんぐんと悪くなって不治の病ときまってしまった。

そこで夫婦は前にかかった医者を念のためにと思い、世話してくれた人に恥も外聞もかまわずに頼み込んで、今は死んだものとあきためながら投薬してもらったところが、半年あまりの後に鬼のように達者にしてくださったので、この医者の手柄が世間に評判になった。

親の身として嬉しさのあまりにあのときの医者を紹介してくれた人のところへ行き、「今日は吉日ですから薬代を御恩を受けたお礼のためにさしあげたい。あなたのほうからお渡しください。」というので、紹介した夫婦はこの礼金について話し合い、「こちらから渡してくれというのであれば、それ相当の礼金に違いない、まず銀5分くらいであろうか」と亭主が推測すると、内儀が言うには、「どうしてそんなに出すものですか。せいぜい銀3枚ぐらいのものでしょう」と言い合った後でさて受け取ってみると、まず銀100枚、真綿20把、酒の一斗樽一荷に箱入りの干鯛という思いのほかの薬代であった。

医者も再三辞退したが、紹介した人も口添えして受け取らせたうえに、銀100枚を貸して、この医者に家屋敷を求めさせた。

するとそれからしだいに流行り出して、まもなくこの医者は駕籠に乗る身分になった。

言ってみればわずかなことではあるが、40貫目に足りない身分で銀100枚の薬代を払ったのは、堺はじまって以来、町人にはないことである。

この気前で大分稼いで儲けだし、家は栄えたという。