2016年6月19日日曜日

巻3(2) 国に移して風呂釜の大臣

国中の医者が見放し、すでに末期の水を与える時が来て、今は生死の境だと蛤で水を口に入れたがそれさえ喉に通らず、身内の人たちみんなで病人の手足を握り、「これこれ西の極楽へどこへも寄らずにまっそぐ行くことをお忘れなく、おやじ様」と勧めると、親父は半ば眼を見開いて「わしは63年生きた。寿命から言って不足ない。

貸し借りは残さずこの世の帳面の私の名は全部消して、閻魔の帳面に付け替えることを腹に決めている。この世に思い残すことは何もない。

おまえたちはただただ世渡りの種を忘れるなよ」と言い残して往生してしまった。

一同は嘆くことをやめて葬儀を執り行った。

「死んでしまえば何もいらないものだ。経帷子1枚と銭6文を四十九日の長旅の旅費にするのでは、地獄の駄賃馬にお乗りお乗りになることも出来ないだろう」とみんな冥途の道中を思いやった。

その後、息子は家の家督を相続して、昔のように豊後の府内に住んで、万屋三弥といって世に知られていた。

この人は万事につけて世間の掟を守り、3年の間は喪に服して、軒端の破損もそのままで直さず、心の底に愁いをふくませて命日を弔い、父の冥福のために施しや寄進をし、1人の母に孝行を尽くしたので、何事お願いがかなって幸せであった。

「おやじは遺言で世渡りの種を大事にせよと言い残されたが、菜種は油をしぼる草だから、この種の事だろう。」といちずに思い込み、いつかはその菜種の買い占めをするか、またはこの野で菜種を作らせて金持ちになろうと、明けても暮れても工夫をめぐらした。

ある時、人里から離れた広野でむかしから薄原となっているところを通りかかったが、こんなところを狼の寝床にしておくのも国土の無駄遣いと思いついて、ひそかに菜種を撒き散らして試したところ、その季節に花が咲き実がなったので、自然にまかせておいてもこうなのだからと、新田に払い下げてもらい、十年間は年貢もいらないという条件でここを開拓することになった。

ところどころに人家を建てて集落を作り、鋤・鍬を持たせて耕作させたところ、毎年利益を得て、人の気づかない金銀がたまったので、それを上方へ船をまわして商いをはじめ、多くの部下に売りさばかせて、しだいに九州一の長者になって何不自由ない身分となった。

その後、母親を連れて京都の春景色を見物に出かけた。

どこの国も桜の色香に変わりないが、花を見る人の風情には違いがある。

まことにおもしろい女の都である。

山にも川にも散ることのない美人が歩いているのを見て、「悲しいことだ、何の因果で俺は田舎に生まれたのであろうか」と自分の故郷のこと思すっかり忘れて毎日女遊びに心を乱していた。

滞在期間も終わり家に帰る時が来たときに、妾を12人召し抱えて豊後に帰り、屋敷を京都風に新築して、金箔・宝蔵・広間・大書院・庭には西湖の岩の配置にし、玉の蒔き石、銀骨の瑠璃等を輝かせるなど荘厳な家の造りにした、自分はその真ん中に座り、女に扇で煽がせて風の強いほうを近くに寄せたりした。

昔豊後にいた真野の長者もこのおごり高ぶりも及ばないであろう。

家の内情は人が知ることはないが、これでは天罰も下るはずだ。

一家の者はこのおごり高ぶりをくやんだが、一向にやめる気配もない。

そこで古株の部下が元帳をしめくくって、銭蔵と銀蔵の鍵は主人に渡して自由にまかせたが、3間と5間の小判蔵一つだけは主人の自由にさせない間はこの家の傾くことはなかった。

しかし、世は無情なことで、その部下が58歳の冬にちょっと風邪をひいただけで亡くなってしまった。

それからは主人が金蔵の鍵を受け取って思うのままに奢りを極め、九州の水の硬水が気に入らないと京都の清水寺の水を幾樽も船路を運ばせて取り寄せて、風呂を焚かせた。

このため、風呂釜大臣と噂された。

これではそのうち煙も絶えて破産になるだろうと見守っていると、案の定ある年の暮れに総勘定をしたところ、5000貫目の勘定に銀1匁3分だけ、元銀に不足が生じ、それからは次第に大きな穴が開き始め、1000キロの堤防もありの穴から崩れるのたとえ通り、その身の不運が重なって、ついには命までも失い、あとに残ったものはみな他人の宝になってしまった。