2016年6月30日木曜日

巻1(1) 初午は乗ってくる仕合せ

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お金は大切なので、身分に関係なくお金のルールに従いなさいと言う話

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自然界というものは何もしないでも国土に深い恩恵を与えている。

それに対して人間は誠実でもあるが、偽りも多い。

それは人の心が元来空虚なもので何かのこと事柄に対して心は善ともなり、悪ともなるからであり、その事柄が去ればまた元の空虚に帰してしまうものだからである。

そうした善と悪との間に揺れ動く生きていかなくてはいけない社会の中で、政治が正しく行われている今の時代を何不自由なくゆったり暮らしている人は、本当に人間らしい人なのだから、決して普通の人間などとは言えない。

一般人にとって一生の一大事は世渡りの道だから、士農工商はもとより、僧侶・神官に限らずどんな職業でもお金の神様のルールに従って、倹約し金銀をためなければならない。

この金銀こそ両親を別にして、命の親ともいうべきものである。

だが人の命は長いものと思っても翌朝にはどうなるか分からないし、短いと思ってもその日の夕方には死ぬかもしれない。

だからこそ中国の詩人も「天地は万物を宿す宿屋のようなもので、歳月は永久に過ぎ去る旅人のようなもの。人生は夢まぼろしのようなものだ」と言っている。

本当に人の命はほんのわずかの間に火葬の煙と消え失せてしまうもので死んでしまえば金銀はとても役に立たないものである。とはいうものの、残しておけばその子孫のためにもなるものだ。

ひそかに考えてみると、この世で人間が願うことのなかで、金銀の力でかなわないこととは天下・生・老・病・死の5つがあるだけで、それ以外にはない。とすれば、金銀にまさる宝がほかにあろうか?

誰も見たことのない島の鬼が持っていると伝えられる、人の姿を隠すという隠れ笠や隠れ蓑を手に入れても、にわか雨の時の役には立たないから、そんな手の届くことのないような非現実的な願いは捨てて、手近なところでそれぞれの家業を励むのがよいのだ。

また幸運をつかむには、身も心も健康であることが肝心だから常に油断してはならない。

特に世間の筋・道理を第一として神仏をまつるのが良い。これこそが日本の風俗なのだ。

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季節は山も春めく2月の午の日、泉州に鎮座する水間寺の観音に、貧乏人も金持ちも男も女も参拝していた。みな信心からお参りするのではなく、欲があっての参拝で、はるかに続く苔むす山路をたどり、ヒメハギや荻の焼け原を通り抜け、まだ花も咲かない田舎までやってきて、この仏に祈願することと言えば、その身分相応の金持ちになる事を願うのであった。

この御本尊の側からしても一人一人に御返事してもきりがないから「今このせちがらい世の中に一獲千金のぼろもうけはない。わしに頼むまでもなく、農民には農民に値する職分があるものだから、夫は畑を耕し、嫁は機を織って朝から夕方までその仕事に精を出すのが良い。農民だけではなくすべての人は皆この通りです。」と扉越しにお告げをなさるわけであるが、誰もそんなことを感じたり聞いたりしないのは情けないことだ。

この世で借金の利息ほど恐ろしいものは無い。

このお寺では参拝する人たちがお金を借りる風習があった。その年に1文借りたら来年は2文にして返し、100文借りれば200文にして返済することになっていた。

なんといっても観音様のお金だからみんな間違いなくお返しする。

たいていの人は5文とか3文とか、10文以内を借りるのであったが、ここに23歳くらいの体つきが太くたくましい、身なりの質素な髪を雑に縛った信長時代に仕立てたような古風な着物姿の一人の男が来て、人目かまわず尻からげにして、参詣したしるしに名物の山椿の枝に野老を入れた髯籠をくくりつけて担ぎ、帰りがけにご仏前に立ち寄って「借り銭1貫文!」と申し入れた。

寺の係りの僧は貫ざしのままお金を渡し、その住所も名も尋ねないうちにその男は消え去ってしまった。

後で寺僧が集まって、「この寺開山以来1貫文ほどの銭を貸したためしは無い。借りたのはこれが初めてだ。きっとこの銭が返されることはない。今後は多額に貸さないほうがよい。」と話し合った。

その男の住所は武蔵の国江戸で、小網町の片端の漁師相手の船着き場で船問屋をしていたが、しだいに商売が繁盛するのを喜び、掛け硯に「仕合せ丸」と書きつけて、その中に水間寺から借りた銭を入れておき、漁師の出船の時、銭の由来を語って100文ずつ貸し付けたところ、借りた人は自然と幸運に恵まれるという事が遠い漁村にまでも評判になったので、その返済する銭がさっきの分から次々に毎年集まって、1年2倍の計算にして、13年目には元1貫文の銭が8192貫文に増えてしまった。

そこでこれを通し馬に乗せて東海道を運び、水間寺に積み重ねたので、これを見た僧たちは感嘆し、その後いろいろ相談して、「のちの世の話の種にしよう」という事になり、都から大勢の大工を呼び寄せて宝塔を建立した。ありがたいご利益というものだ。

この商人の内蔵には常夜灯が輝き、その家名は網屋と言って、広い武蔵の国に知らぬものはない人だった。

一切親の遺産など譲り受けず、自分の商才で稼ぎ出して、500貫目以上になれば、これを分限という。1000貫目以上を長者というのである。

この金の勢いでは、利が利を生んでいく千万貫にもなり、末長く繁盛することだろうと、網屋では万歳楽の祝言の謡で祝っていたのであった。