2016年6月6日月曜日

巻5(5) 三匁五分曙のかね

万年暦の吉凶や相性が当たるのも不思議だが、当たらないのもおかしいものだ。

近頃の縁組を見ると、相性や容貌などには構わずに持参金をつけてよこす金性の娘を望むことが世間の習わしとなった。だから今どきの仲人はまず持参金の内容を詮索して、その後で「その娘は片輪ではないか」と尋ねるのである。

昔とは大変な違いで、欲のために人の願いも変わってきたのである。

淵となり瀬となって流れる和気川の上流に久米の佐良山というところがあるが、そこで新所帯をもってから、月日のたつうちにしだいに金持ちとなり、美作では知らぬ者のない長者蔵合と肩を並べるような人の知らない大分限者に万屋という屋号の者があった。

一代で稼ぎ溜めた銀の山は夜になるとその精が呻きわたるのであるが、貧乏人の耳に入ることではない。

しかも贅沢をやめて家の棟も世間並みの高さにし、元日にも婿入の時に仕立てた麻袴をはいて、40年このかた年賀の礼に務めてきた。

世間では何染・何縞がはやろうと構わず浅黄の7つ星小紋に黒餅の紋を付けた羽織を着て、着物は花色よりほかにはモミジも藤色も知らず、幾年かを過ごしてきた。

蔵合という家は、蔵の数を9つ持つほど富貴であったから、これまた国の飾りとなるものでもあった。

それに対して万屋は世間には知られない金持ちで、一人息子に吉太郎という者があったが、13歳の時鼻紙入れに遊里で使うような上等な小型の杉原紙を入れているのを見て勘当し、播州の網干におばがいたのでそこへ遣り、「那波屋殿という分限者を見習え」といって我が子を見捨て、その後いもうtの一子を見立てて引き取り、25、6歳までも手代同様に働かせたが、その男の倹約ぶりといったら廃れた草履までも拾い集めて瓜の苗床用にと実家へ送るのを見て気に入り、これを養子として家を渡した。

そこでそれ相応の嫁を探していると、世間の人とは違いこの男は「なるべく嫉妬深い女がいたら、わたしの嫁に貰いたい」と願うのであった。

世の中は広いもので、思い通りの娘があって縁組をすまし、万屋夫婦は隠居をして財産を残らず譲り渡したが、この跡取り男は金銀のあるにまかせて少し調子づいて派手になり、妾を探したり、旅回りの少年役者狂いをしたりしたところ、例の嫁は約束どおりやきもちを焼きはじめ、大声を立てるので、世間体をはばかって自然に色遊びをやめて、酒を飲んで宵から寝るよりほかはなかった。

そうしたわけで、主人が家を出ないのでまして手代どもは灯火の影に座をしめて、慰み半分に帳面を繰りひろげ、丁稚は加減算を算盤で習うよりほかなく、家のためになることばかりであった。

はじめのうちは笑っていた御内儀のやきもちが、家のためになるものだと皆々思い当たるのであった。

いったい親が子に対して寛大すぎるのは家を乱す元である。

ずいぶん厳しくしつけてもたいていは母親が子供とぐるになって抜け道をこしらえ、身分不相応な浪費をするものだ。

厳しいしつけはその子のためになり、甘いのは仇になるものだ。

この万屋の老夫婦が亡くなられた後、嫁が伊勢参宮をして、帰りに京・大坂を見物し、人々の洒落た風俗を見ならってその姿を真似るにつれて、心もその通りに都風になって、やきもちというのは野暮な者のすることだと慎むようになったので、亭主はこの時とばかりに浮かれ出し仮病を使いこの土地での養生は思わしくないといって上方に上り、男色・女色の両道にふけって、毎日金銀を使い散らした。

そのため、いつのまにか恋ゆえに身代がほころび、針を蔵に積むということわざのとおり、いくら金銀があっても足りるはずがなく、長い間この家に住みなれた金銀に憎まれ、内蔵の福の神がお留守になった時、亭主はようやく迷いの夢から覚めて驚き、商売を大規模に変えて両替屋をはじめたのであった。

店つきを広くして人の金銀を限りもなく預かり、あちらこちらとこれを運用して、この調子なら再び以前の身代に回復しそうに見えた年の暮れとなった。

だが、人の内証は張物というたとえのとおり、見かけ倒しで内実は苦しいので、大晦日の提灯も、預金を引き出しに人が来たかと恐ろしくなり、「収支勘定も今宵一夜を越せば、明日からはゆったりできるぞ」と有金一文も残らず支払帳につけて、算用をすましたが、夜明けに近い七つの鐘が鳴る時にはどんなにしてみてももう一文の銭もなくなり、新年の縁起物の若恵比寿売りを呼び込んではみたが、買う銭が無く、「烏帽子おかぶらぬ恵比寿があったら買おう」などとごまかして帰した。

それから間もなく門を叩いて兵庫屋という人が革袋を持たせて来て、「小判5分の豆板銀が悪金だったから取り換えてもらいたい」と差し出した。だが、それを取り換える銀がなくて、万屋の身代の正体がばれてしまった。