2016年6月23日木曜日

巻2(3) 才覚を笠に着る大黒

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愛する子供がバカをやって落ちぶれても、教育がしっかりしていれば復活できるお話

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京都の3階建ての倉庫を見渡すと一番目立つのはその名を知られた大黒屋の金持ちの倉庫だった。

個々の主人はぜいたくに世を過ごしたいと願って、五条の橋が木造から石橋に架け変わるときに、西側の隅から三枚目の橋板を譲り受けて、板に大黒天の絵を刻ませてお祈りしたご利益があって、それから家は次第に繁盛し、社名を今では誰もが知る大黒屋新兵衛とした。

男の子3人を無事に育てたが、いずれも賢かったので親父の新兵衛は喜んで老後の楽しみを極め、近々隠居をしようと準備していたが、長男の新六が突然金銀を無駄づかいし始めて、金に糸目をつけない女遊びにふけるようになり、半年もたたないうちに170貫目が出納簿から消えてしまった。

新六にはとても手の施しようのない事態になったので、部下たちが心を一つにして、買い込んでいる在庫品の代金に計算の合うように会計を捜査して、やっと盆前の決算を済まして、「これからは道楽はおやめなさい」と言って聞かせたが、新六は一向に聞き入れないで、その年の暮れにはまたもや230貫目も足りなくなった。

こうなってはもう化けの皮も剥げていたたまれなくなり、伏見稲荷の近くの借家に逃げてしまった。

実直な親父は激怒したので周りの人はあれやこれや謝ったのだが機嫌はなおらず、とうとう町のお付き合いの方たちに礼装してもらい奉行所に訴えて勘当帳に正式に登録してもらい、勘当して子を1人捨ててしまった。

血肉を分けた親の身からしてこれほどまでに子を嫌うというのは並大抵のことではなく、せがれの新六の悪心のせいだ。

新六はどうにもならなくなって、伏見稲荷近くの借家にもいられなくなって江戸に行くことにした。道中の靴代もなく「悲しいのは自分ひとりだ」と嘆いてみてもいまさら遅い。12月28日の夜、風呂に入っていたら「親父が来たぞ!」の声にふんどしも無しの裸で逃げ出した。

翌29日に雪のちらつく中、大亀谷を過ぎて勧修寺に差し掛かると、茶屋のお湯が沸くのに心ひかれ「耐え難い寒さをしのげるのに・・」とおもいつつ、無一文なので大津や伏見から来た籠がたくさん来て混雑しているどさくさに1杯盗み飲みしてのどを潤し、ほかの人が立ち際に脱ぎ捨てた服を盗んだ。

初めて盗み心を覚えていくうちに小野という田舎に着いた。

柿の木の陰に子供たちが集まっていて「弁慶が死んじゃったよ」という声が聞こえた。様子を見ると大きな黒犬であった。これをもらい受けて先ほど盗んだ服に包んで音羽山のふもとに行き、野良畑で働いている男を読んで「これは疳の薬になる犬です。3年も薬を飲ませ続けた犬でこれから黒焼きにするところです。」と嘘をつくと、それは人のためになる事だと芝や枯笹で焼いてくれた。

その村人にもお礼に少しあげて残りを肩に担いで、田舎訛りの声で「オオカミの黒焼きはいらんかね」とおかしな声で売り歩き、逢坂の関を超えて、死罪になるのも恐れないでだれかれかまわず押し売って、かなり人馴れ、旅慣れしているずるい針屋や筆屋までも騙して、追分から大津までの間に580文ほど儲けた。

それなりの才能が出てきたが、「この知恵が京都にいるうちに出ていたら遠い江戸まで行くことななかったのに」と心の中で泣き笑いして、瀬田の長橋を渡っては行く末を案じつつ草津の宿屋で新年を迎えた。

歌枕で有名な鏡山を眺めながら草津名物の姥が餅を家にいたころの鏡餅に見立てて、「いつか花の咲く桜の木のようにやがて再び俺の人生も花を咲かせることもあるだろう。

俺もまだ色も香もある若者だから、ことわざの『稼ぎに追いつく貧乏神無し』のように、年取った足弱の貧乏神は俺には追いつけまい」と思うと汚いしめ飾りも春めいて見えてきた。

秋はさぞ月の眺めもよいだろうと自分を盛り上げながら、不破の関を通り、美濃路・尾張を超えて東海道の村々をめぐり、京都を出てから20日で着くところを62日かけて品川に着いた。

ここまで何とか飢えをしのいできたうえ、お金も2貫300文残ったので、売り残した黒焼きを海に沈めて江戸入りを急いだが、日は暮れるし行くあてもないので北品川の東海寺の紋の前で一夜を明かすことにした。

ところが、その門の片陰にはこもを被った乞食が大勢寝ていたが、春とはいえ海風がきつくて波の音もうるさくて眠れないので乞食どもが身の上話をするのを夜中まで聞いていると、よく乞食に筋なしとは言うけれども、みんな親の代からの乞食ではなさそうだった。

その中の1人は大和の竜田出身で「少しばかりの酒を製造して6、7人の家族を養っていたが、金銀100両たまってきたところで商売がまどろっこしくなって、親戚一門友人まで引き留めたのに、何もかも捨てて江戸で勝負しようとしてしまった。

何も知らないくせに江戸で呉服町の魚屋を借り、上々吉諸白を売る店と軒を並べて開店したけれども、鴻池・伊丹・池田・奈良などの根強い老舗の香りも高い酒には遠く及ばず、資本も無くしてしまって樽の藁を身にまとうようなおちぶれになってしまった。

故郷の竜田へ錦を飾って帰れなくても木綿でもあればせめて帰れるのに・・・」と男泣きして「慣れた商売はやめてはならないものだ」と気づいた時には遅すぎたのだ。

もう一人は泉州堺出身の者で、何事にも器用すぎで、芸自慢で江戸にやってきた。

書道は平野仲庵にに習い、茶は金森宗和に習い、詩文は深草の元政に学び、連歌・俳諧は西山宗因に習い、能は小畠に伝授の扇を受け、鼓は生田与右衛門に習い、朝は伊藤仁斎に学んで夕には飛鳥井に蹴鞠を習い、昼は玄斎の碁会に交わり、夜は八橋検校に琴・三味線を習い一節切は中村宗三に習い、浄瑠璃は宇治嘉太夫に学び、踊りは大和屋甚兵衛レベルまで行き、風俗遊びは島原の太夫高橋に仕込まれ、野郎遊びは鈴木平八を手玉に取り、人間のすることはすべて名人に学び「何々を極めたから立派に世の中に生きてゆける!」と自慢していたが、こんな物好きな芸は生活の役にはなんにもなるはずがない。

そろばんも出来ないし、天秤の使い方も知らいないので当たり前だった。

武家に勤めてもどのように仕事してよいか分からず、役場に勤めても役立たずとクビになり、こうした落ちぶれになって初めて「諸芸のかわりになんで生活の手立てを教えてくれなかったんだろう」と親を恨むのであった。

もう一人は親の代から江戸の金持ちで、通り町にはお屋敷を持っていて一年に600両づつ決まった家賃収入が入っていながら倹約の2文字をおろそかにしたため、収入源の家はもとより自分の家まで売ってしまい、住むところもなく、仕事の大変さにも我慢できないのでタダの乞食になってしまった。

それぞれの身の上話を聞くと新六は同じ思いで哀れ深く感じ、3人の枕元に立ち寄って「私も京都の者だが、親に勘当されて江戸にやってきたのだが、お前さんたちの話を聞いて心細くなってきたよ」と恥を隠さず話すと3人とも口をそろえて「親に謝っちゃえよ」「間に入ってくれるおばさんとかいないのかい?」「江戸へは行かないほうがいいよ」と言う。

「もう後戻りはできないよ、これからどうするかのほうが大事だ。ところでお前さんたちは頭がいいのにここまで落ちぶれているのは不思議だよ。商売につながるような案も出てくるんじゃないかい?」というと、「この広い江戸の城下で日本中の天才たちの集まるところだから競争も激しくて3文のお金も簡単には儲けさせてもらえないです。しょせんカネがカネを産むご時世だから元手がないとダメだよ」と言う。

「お前さんたちが今まで世間を見ていた中で何か新しい商売のアイデアはないかい?」と尋ねると、「そうだなあ、たくさん捨てられている貝殻を拾って霊岸島で建材用の石灰を焼くか、江戸は忙しいところだから刻み昆布や花鰹を削って量り売りするか、あるいは一反の木綿でも買って手ぬぐいを切り売りするかの簡単な商売しかないかなあ」というのを聞いてアイデアがひらめき、夜明けに3人とバイバイした。

別れ際に3人に300文のお金をあげたところ非常に喜んで「運が開けて富士山ほどの金持ちになれるのはすぐですよ」と言ってくれた。

それから新六は伝馬町の木綿問屋の知り合いを訪ねて、このたびの事情を語ると同情してくれて、「男が働いてみるところはここですよ。ひと稼ぎしてみなさい」と言うので元気が出て目星をつけておいた木綿を買い込み手拭いの切り売りを始めることにした。

工夫して天神様の縁日の3月25日を選んで手水鉢の近くで売り出したところ参拝者は「縁起がいいので」と縁起をかついで買ってくれたので一日のうちに相当の利益を得た。

それから毎日工夫を重ねて10年もたたないうちに5000両の金持ちと世間から評価されて、その土地で第一番の知恵者と言われ、町中の人々は新六の指図を受けるようになり、その地域の宝とまで言われるような存在となった。

看板に菅笠をかぶった大黒天を掲げたので世間では笠大黒屋と呼んだ。

屋敷方に出入りし、小判の買い置きをし、お屋敷に住むというのはまことにめでたいことです。