2016年6月8日水曜日

巻5(3) 大豆一粒の光り堂

男は土割りの木槌を手にして畑を打ち、女は麻布を上手に織り上げるために大和機にとりついて暮らしている。

東窓に明かりを取った朝日の里に、川端の九助という小百姓がいたが、牛さえ持たずに厩舎のような角屋造りの家にみすぼらしい暮らしをしていた。

幾年も一石2斗の御年貢を量って納め、50過ぎまで同じ顔つきをして変わりばえもなく、節分の夜になると小さな窓にも世間並みに鰯の頭や柊を刺し、目には見えない鬼を恐れて、心祝いの豆をまき散らすのであった。

夜が明けてからこれを拾い集め、その中の一粒を野に埋めて、「もしかしたら煎り豆から芽が出て花の咲くことがあるかもしれぬ」と待っていたところ、万事はやってみなければ分からぬものであった。

その夏、青々と枝が茂って、秋にはおのずと実って手一杯に余るほど取れたのを溝川に蒔き散らし、それから毎年刈り入れ時を忘れなかったのでしだいに収穫がかさみ、10年も過ぎると88石になった。

その代金で大きな灯篭を作らせ、これを初瀬街道に建てて、闇を照らし今でも豆灯篭といって、その光を伝えている。何事でも積もれば大願も成就するものである。

この九助はこうした心がけから、しだいに家が栄え、田畑を買い求めてほどなく大百姓となった。季節季節の農作物に肥料を施し、田の草を取り、水を掻いて手入れをするので、自然と稲が実って、房ぶりがよくなり、木綿もたくさんの蝶がとまったようにみごとに花をつけ、人よりも多くの収穫があったが、これは自然にそうなったわけではない。

朝夕油断なく鋤・鍬のちびるほど働いたからである。

万事につけて工夫に富んだ男で、世間で重宝がられるものを発明した。

鉄の爪を植え並べて 細攫(こまざらい)というものをこしらえたが、土をくだくのにこれほど人の助けになる物はない。このほかに唐箕や千石通しも発明した。

また、これまでは麦の穂を扱く手業もめんどうだったのに、尖った竹を植え並べて、これを後家倒しと名付け、昔は2人がかりで穂先を扱いでいたものだったが、これは力もいれずにしかも1人で手まわしよく使えるように工夫したのであった。

さらにその後、女の綿仕事をまどろっこしく思い、ことに弓で綿を打つのはようよう一日仕事に5斤しかこなせないことに目をつけて工夫し、中国人のやり方を尋ねて唐弓という道具をはじめて作り出した。

世間には内緒にして横槌で打ってみたところ、一日に3貫目ずつもはかどったので、雪山のように繰り綿を買い込み、多くの人を雇って打たせ、打ち綿をむしろで梱包して幾本となく江戸に輸送して、4、5年のうちに大金持ちになって、大和では隠れもない綿商人となった。

綿の集散地の平野村や大阪京橋の綿市場、同じく大阪の綿問屋の富田屋・銭屋・天王寺屋などへ毎日何百貫目というほど売り込み、摂津・河内両国の綿を買い取って、打っては送り出して秋冬のわずかの間に毎年利益を得て、30年余りの間に1000貫目の身分となったことを書置きして、自分一代は楽をするという事もなかったが、子孫のためによいことをして、88歳で亡くなった。

まさに死に栄えというべきか、立派な葬儀をして、ちょうど10月15日のお釈迦様が悟りを開いた日で十夜念仏の終わる日でもあったから、極楽往生は願いのままで、野辺の送りをして火葬し、それから百カ日過ぎた。

遺言通りに在原寺の法師を立会人にしてお坊さんに供する午後の食事である御非時を差し上げたうえで、遺言状の箱を開いてみると、「有銀1700貫目、一子九之助に相渡し、なお家屋敷・諸道具の儀は書き載せるまでもなく譲る」とあった。

さて親類のほうへそれぞれ形見分けの書付があるのを読むと、「三輪の里の叔母の方へ手織りの算崩し模様の木綿の袷一つ、紬地の襟巻、桑の木の撞木杖一本を贈る。吉野の下市に住む弟の方へ、三ツ星小紋の布子にもじの肩衣を送るがよい。岡寺の妹には花色の布子に黒い半襟のかかったのを一つ、生平の帷子を添えて与えるがよい。柿染めの夏羽織は袖のネズミのかじった跡が見えないように継当てをして信心仲間の仁左衛門殿へ進呈するように」とあった。

また、家に久しく奉公してきた2人の手代があったが、1人にはそろばん、もう一人には使い慣れた秤をゆずるようにとあった。

遺言状を見る前は期待をしていずれの者たちも開くのを待ちかねたが、どうしてどうして、金銀のことは1匁も書付がないので、おのおの呆れ果て、「金のある親類も銭銀の頼りにはならないものだ」と今までこぼした涙を拭い去ってこの家を見限り、それぞれわが里へ帰って行った。

だが、考えてみれば1700貫目の銀はこの人一代の間の倹約で増やしたものだから、親戚一門が欲しがるからと言ってたくさん配ってくれるはずもないのである。

この九助が一生贅沢な絹物を肌に着なかった証拠は、このたびの調べで判った。42年の厄年に絹のふんどし一本を初めて買われたが、少しも汚れ目がつかず、そのままに残っていた。

この父親の身の回りのものといっては以上のほかには何もなく、遺言状の示す通りで、藤巻柄にクルミの目抜きのあいくち1本、なめし革横ひだの巾着にシカの角の根付けをつけたもの、これらのほかに装身具としては何一つなかった。

せがれの九之助はこれを情けなく思い、早々と遺言状に背いて親類手代までもそれぞれに銀を分けて与えたが、それを親とは格別に違う志だと、人々はみな喜んで出入りするようになり、そのまま昔に変わらず商売した。

ある時、九之助は多武峰のふもとの里の仁王堂というところに、京大阪の同性愛者である飛子の隠れ家があるのを教えられ、知り合いの人にそそのかされて通い始めた。

これがしだいにつのって、男色・女色の恋の二道をかけて、通い始めた奈良の木辻町での遊女遊びもほどなく嫌になって、今の都の島原の太夫和国・唐土までも、引船女郎の勧めるままに買い続けてとめどがきかなくなった。

母親が嘆いて十市の里から美人の娘を嫁に呼び迎えたが、色里の美女を見慣れた目であるから、なかなかこれぐらいでは遊び止まらず、これを苦に病んで母親もとうとう亡くなってしまった。

それから後は、意見を言う人もなく、万事を忘れ果てて長年にわたって遊蕩を続けた。その後は召使までも見限ってまともに勤める者もいなくなった。

けれども夫婦の間にいつとなく男子が3人生まれて、跡継ぎの心配はなかったがいよいよ九之助は酒と色との2つに身を痛め、8、9年のうちに命も危ない身となって、34歳の年に頓死し、今さら驚いても甲斐が無く、野辺の送りをすました。

九之助も最期が近いことを覚悟して、かねて遺言状を書いておいたのであったが、手代どもが集まって、「お子たちはまだお若いので、あとのことが心配です。金銀はわれわれの手元に預かっておき、皆様が成人なされた時分にお渡ししましょう。」と誠意を尽くしての内々の相談をしたが、さすがに昔の恩を忘れぬ者たちだと、土地の人々は感心し、とりあえず書置きを開いてみたところが、皆々横手を打って呆れたのも道理であった。

というのは、有銀1700貫目は使い果たし、これは借り銀の書置きだったのだから、興ざめしたわけであった。

その書置きには、「京井筒屋吉三郎殿に小判250両の借りがある。これは遊里で急に金の必要な事ができてしまい、借用して恥をまぬがれたのだから義理のある借金なので、これは跡取りの九太郎が成人した後一生懸命稼ぎ出して返してもらいたい。

また、大阪の道頓堀での遊興費の未払い分が箇条書きにしてあるので、これは九二郎が返済してほしい。

このほかあちこちに掛け買いの借金があるが、わずか30貫目ほどだから、これは九三郎がおいおい払ってほしい。

家屋敷・諸道具は土地の人たちへの借金の代わりに引き渡して、競売してもらいたい。死後の供養は後家にやらせるがよい。書置きは以上」と書いてあった。