2016年6月13日月曜日

巻4(3) 仕合せの種を蒔銭

人は正直を本とするのもので、これが神国日本、なかでも伊勢の国のならわしである。

その伊勢神宮の社は簡素な社殿だが、軽々しくもその百二十末社は紙表具の御神体で、考えてみればあさはかなことであるが、何の偽りもない紙の御心は、神鏡に照らしてみても明らかであるから、人もそれを疑うことなく殊勝にありがたく思って、この日本に住む者はここに参宮するのである。

ところで、いつの頃からかここでは小利口そうに宮巡りの播き銭に鳩の目というあやしげな鉛銭をつくり、100文といっても実は60文つないで売っている。さてもせちがらい今の世の人ごころだと豊かな福の神もこれをお笑いになさることだろう。

ここの繁盛ぶりはいまさら言うまでもないことだ。大々神楽の奉納金は宝の山のように積もり、諸願成就の祈祷料は一日に12貫目の定まりだが、このお賽銭は絶えるまがない。土産物屋の笙の笛や貝杓子を細工して世を渡る人や、海のわかめを売る人など、浜の真砂の数ほどもいる。

その他下級の神官で、お抱えの書記のいない人は諸国の檀那回りをする時に配るお定まり祝儀状を、一通につき銭一文の賃書きで出すのだが、これを年中書いて妻子を養っている者が何百人あるかわからぬほどだ。

とにかくここは世渡りの業のさまざまある所である。それに人の気心を察して商い上手にやるのはこの国の特色である。間の山のお杉・お宝という乞食までも気長に参詣者の機嫌をとって、飢えもせず寒い思いもせず、実には絹物を着飾り、連れ弾きの三味線にのせて「あさましや心ひとつ」という一節を唄っているが、いつ聞いてもその調子は変わらず、この内宮と外宮の一里の間でよい慰みになっている。

ところで、世の中に銭ほど面白いものはない。大勢の伊勢講参りの人はいるが、ついぞこの乞食が満足するほど、その銭をやった人はいなかった。

思えばわずかの銭で済む事であるから喜ばせてやりたいものである。「島原の正月買いをするときは、祝儀に配る庭銭ははずむのだが、京の人はひどくけちだ」と、神宮正殿に敷く白い玉砂利を売るおやじも言っていた。

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ある時、江戸の町人が参宮にやってきたが、道中の乗掛馬もさほど飾らず、駕籠布団も寄進のための目立たぬ紫色を用い、供を2,3人つれて、御師のつけた案内者にまかせて伊勢山田を出る時、新鋳の寛永通宝を200貫文用意して駄馬に積み、間の山50町の間それをまき散らしたので、大道は土も見えなくなる有様で、野も山もみな銭掛け松かと思われるほどであった。

乞食芸人たちが先を争ってこれを拾うと、松原踊りをする乞食たちの袖にあふれ、銭を受け取る味噌漉しのざるからこぼれるほどで、しばらくは小唄も撥音も鳴りをひそめてしまい、「いったいこの人はどういう長者なのだろう」と、その名を尋ねたところ、江戸は堺町のほとりに住む分銅屋の何某という、人にはあまり知られていない金持ちであった。

世間には金もないくせに見せかけだけで商売をするから大名のような商人が多い。ところがこの人は表向きを軽く見せてもその資産内容のしっかりしていることは、暗がりに鬼をつなぐというたとえのように、薄気味がわるいほどの力があった。

年越ごとに仕合せが重なって、21歳から55歳までの38年間に自分の手で稼ぎ出し、金7000両を一人息子に譲り渡した。

そもそもこの人の商いのはじめは、江戸堺町都伝内の芝居小屋の近所に、9尺間口の店を借りて、小規模行替えを行う銭見世を出し、諸見物人たちの木戸札を買う小銭の両替をしていたのであったが、銀2匁か3匁の両替のうちに、5厘1分ずつごまかして天秤の量目を少なく量ったので、少しのこととはいえ積もれば大分の利益となり、しだいに栄えて両替屋となった。

これこそ楠木分限であり、根のゆるぐことのない身代である。

その隣に、大変利発な男が住んでいて、カラスを鷺とごまかすような見世物をこしらえて渡世していた。

ある年は閻魔鳥といういかさまな作り物を仕立てて珍しがられ、一日に銭50貫文ずつも稼ぎ、またある年は、形の奇妙な生き物を「ベラボウ」と名付けて見世物にしたが、これも毎日木戸銭が山と積もった。

そこですぐにでも家蔵を求めたかというとそうではなく、今でもやはり奥山や入海に気を配って、「万一浅黄色の猿でもいればよいが、ひょっとしたら手足の生えた鯛がいるかもしれぬ」と捜しまわっているが、もとより水の泡のような世渡りであるから、消えるのも早いのである。

およそ少年俳優たちの給金はその場限りの徒花のようなもので、身につかないものだ。

玉川千之丞が女形をして、業平河内通いの狂言一番を一日小判一両の給金に定め、一年に360両ずつ取ったのであったが、伊勢の国へ引っ込んで死ぬ時には、昔の舞台衣装すら残っていないほどであった。

ただその時々の栄花と楽しんだだけなのだ。

金銀を貯めて商人になろうという心掛けはなかったのである。

だからなんといっても人はそれぞれ本業をよくわきまえることが大切である。

さる明暦3年酉の年の江戸の大火で諸道具までも焼けてしまい、皆々丸裸になったが、それもほどなく以前のように復興した。

酒屋は杉の葉を束ねた看板を元どおり門にかけ、本町の呉服店はそれぞれに店に綿を飾り、伝馬町の絹屋や綿屋も昔と同じ店つきで、大伝馬町の佐久間の屋敷の表通りは相変わらず各種の紙屋が軒をならべ、舟町の魚市、米河岸の米の売り買い、尼棚の塗り物問屋など、通り町の繁盛はこの御時世なればこそである。

今や風もなく雲も静かで照降町には下駄や雪駄の細工人が住み、白銀町には銀細工の槌の音がして、昔見た人々がそのままその家職を続けている。

以前日雇い人足だった者はそのままの姿であり、山伏は同じ顔で、腫物切り傷の膏薬売りは今も同じ売り声であり、ひとりも商売を替えたものは見えない。

貧乏人は相変わらず貧乏で、金持ちはやはり金持ちになっている。

これほど不思議なことはないと、かの分銅屋が方々を見まわって語ったのであった。

「広い町筋にたった一人、その火事の時分に銀でも拾ったのであろうか、手慣れた数珠屋をやめて中橋に刀・脇差の店を出し、いったんは繁盛したようであったが、間もなく剣も菜刀のように錆ついて、また元の数珠屋に戻って、それを後生大事に営んで露命をつないでいる。

人はやりつけた商売を一筋に励んだほうがよい」と分銅屋は話をしめくくった。