2016年6月14日火曜日

巻4(2) 心を畳込む古筆屏風

季節通りの風が吹き、船をあやつるの船長は海路に熟知していて、西の国に発生したでかい笠雲も3日前から予想し、ちかごろの航海も全く安全になってきたという。

世の中に舟というものがあるからこそ、1日に100里を、10日に1000里の距離の万物の大量輸送が可能となるのだ。

そのために大商人の心は渡海の船にたとえられるのであり、我が家の前の細い溝川を一足飛びに越えて、宝の島へ渡ってこそ、打ち出の小槌で打ち出したお金を量る天秤の音がはじめて聞こえるのである。

一生いわば狭い秤の皿の中を駆け回るだけで、広い世間を知らない人はかわいそうなことだ。

日本国はさておき、中国人相手の投資は大胆でなければできないことで、先行きの見込みが立たないことではあるが、中国人は実直で、口約束にたがうようなことはしないし、絹織物の巻物の巻口と奥口で品質を変えるようなことをせず、薬種にまやかし物を入れることは無く、木は木、銀は銀という具合にきちんとして、何年取引しても品質が変わることは無い。

なんといってもずるくて欲の深いのは日本の承認で、しだいに針を短くし、織布の幅を縮め、傘にも油をひかず、なんでも値段の安いのを第一にとして、売り渡してしまうとあとはどうなろうとかまわないのである。

自分さえ濡れなければ、大雨の中を親でもはだしで歩かせるというふうに、肉親でも利益にならないものは相手にしない。

昔対馬行きの煙草といって小さい箱入りにしたものが大変売れたことがあった。

大阪でその職人にきざませたところ、当分は分からぬことだというので、下積みになる品は手を抜き、しかも重さを重くするために水に浸して渡したところ、輸送中にそれが固まってしまい、タバコの煙も出なくなってしまった。

中国人はこれを深く恨み、その翌年にはなおまた前年の10倍も注文してきたので、欲に目のくらんだ連中が、われ先にと急いで送ったところ、中国の商人たちは、そのたくさんの荷を港に積ませておいて、「去年の煙草は水に濡れていて思わしくなかった。なんなら今年は湯か塩につけてみなさい」と言って、すべてを突き返したので、そのまま腐って磯の土となってしまった。

これを思うに人をだます仕事というものは、あとの続かないものなのだ。

正直であれば神も頭に宿り、潔白であれば仏もその心を照らしてくださるのである。

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とかく運は天にまかせるものと、長崎商いしていた人に筑前の博多に住む金屋というものがいたが、会場での不運が続き、1年に3度まで大嵐にあって貨物を失い、年来の資本金をすっかりそれに打ち込んでしまって、残るものとて家蔵のみとなってしまった。

軒端に吹く松風の音も淋しく、召使の者にもひまを出し、妻子もその日暮らしの哀れな身の上となったが、こうなっては急に取りつくべき頼りもなく、波の音を聞くのさえ恐ろしくなり、孫子の代まで船には乗せまいと、船の霊の住吉大明神まに心で誓いを立てるのであった。

ある夕暮れ縁側にすわって涼風をもとめ、四方の景色を眺めていると、雲が峰のうように立ち重なって、竜でも昇天しそうな風情となった。

「この空模様のように定めのないのは人の身代だ。我が家もこのように貧しくなると、庭の茂みの落葉に埋もれ、いつとなく荒れ果てて、いろいろな夏虫が野山同然に鳴きしきっているが、その声はまことに身にしみる。」と感慨にふけっていたが、ふと見ると塀越しに高く茂った大竹から杉の梢に雲が糸を張ろうとしているの目が留まった。

やっと張った糸をわたってゆくと嵐に吹き切られ、途中からその身が落ちて命もあぶなそうだったが、またもや糸を掛けて伝い、それも切られるとまた糸を掛け、3度までもつらい目にあったのに、ついに4度目に渡り切って、間もなく蜘蛛の巣を作り、飛ぶ蚊の網にかかるのを食物として、なおも糸を繰り出して巣を作るのを見て、「あんな虫でさえ気長に巣をかけて楽しむのだから、まして人間たるものが気短にものごとを投げ出してはいけないのだ。」と思い至り、家屋敷を売り払い、時期を見計らって少しばかりの荷物を仕入れた。

以前と変わって部下も使わず、1人長崎に下って、舶来品の集まる宝の市ともいうべき市場に立ちまじわり、唐織・薬種・鮫皮その他の諸道具を見たが、買って置けば値上がりして儲かることを知っていながら、元手となる金銀に余裕がないので、京都や大阪の者にみすみすぼろ儲けをさせてしまい、知恵・才覚にかけては、あっぱれ人には負けないのだが、なんと言っても皮袋にかき集めた50両をすべてはたいても、ここの商人の仲間入りは出来ないのであった。

思うようにならない商売のやりくりをやめて、やけくそになって、丸山の遊郭に出かけ、以前商売が繁盛していた時の格好をして、「太夫を上げて今宵一夜を遊び納めにしよう。」を思い、以前のつてを求めて、花鳥という太夫にあったところ、太夫とは初めから浅からぬ思いでエッチして、ことに今宵はいつも以上にしんみりした気分であったが、ふと枕屏風に目をやると、それは両面とも総金箔の立派なもので、古筆切れや短冊が隙間もないほど貼ってあったが、どれ一つとしてつまらないものはなかった。

なかでも藤原定家の小倉色紙は名物記に入っていないものが6枚あり、見れば見るほど古い時代の紙で、真筆に間違いなかった。

「どんな人がこの太夫に贈ったのであろうか」と思うにつけても、欲心がおこって、廓の遊興のほうはそっちのけになってしまった。

それからは明け暮れ子の太夫のところへ通い慣れて、上手に取り入ったところ、いつとなく太夫のほうも心を寄せてきて、自分の黒髪も惜しげなく切ってまごころを示してくれるほどの仲になったので、例の枕屏風を所望したところ、わけもなく承知してくれた。

そこで取るものも取りあえず、いとまごいもしないで上方に上って縁故を求めて屏風を大名方へ差し上げて、かなりの金子を頂戴して、また昔に変わらぬ大商人となり、奉公人をたくさん召し使う身分となった。

その後長崎に行って花鳥太夫を身請けし、女の思う男が豊前の漁村にいるというので、そこへ金銀諸道具何一つ不足なくととのえて、縁づけてやった。

花鳥は限りもなく喜び、「このご恩は忘れませぬ」と言った。

「一度は遊女をだましたとはいえ、これは憎めないやり方である。鑑定の目利き、商売の目利きともぬかりのない男だ」と、世間ではみなこれをほめるのであった。