2016年7月1日金曜日

日本永代蔵 目次


  日本永代蔵  井原西鶴

  巻1(1) 初午は乗ってくる仕合せ
  巻1(2) 二代目に破る扇の風
  巻1(3) 浪風静かに神通丸
  巻1(4) 昔は掛算今は当座銀
  巻1(5) 世は欲の入札に仕合せ

  巻2(1) 世界の借屋大将
  巻2(2) 怪我の冬神鳴
  巻2(3) 才覚を笠に着る大黒
  巻2(4) 天狗は家名風車
  巻2(5) 舟人馬かた鐙屋の庭

  巻3(1) 煎じよう常とはかわる問薬
  巻3(2) 国に移して風呂釜の大臣
  巻3(3) 世は抜取りの観音の眼
  巻3(4) 高野山借銭塚の施主
  巻3(5) 紙子身代の破れ時

  巻4(1) 折る印の神の折敷
  巻4(2) 心を畳込む古筆屏風
  巻4(3) 仕合せの種を蒔銭
  巻4(4) 茶の十徳も一度に皆
  巻4(5) 伊勢海老の高買

  巻5(1) 廻り遠きは時計細工
  巻5(2) 世渡りには淀鯉のはたらき
  巻5(3) 大豆一粒の光り堂
  巻5(4) 朝の塩籠夕べの油桶
  巻5(5) 三匁五分曙のかね

  巻6(1) 銀のなる木は門口の柊
  巻6(2) 見立てて養子が利発
  巻6(3) 買置きは世の心やすい時
  巻6(4) 身代かたまる淀川の漆
  巻6(5) 知恵をはかる八十八の升掻








2016年6月30日木曜日

巻1(1) 初午は乗ってくる仕合せ

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お金は大切なので、身分に関係なくお金のルールに従いなさいと言う話

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自然界というものは何もしないでも国土に深い恩恵を与えている。

それに対して人間は誠実でもあるが、偽りも多い。

それは人の心が元来空虚なもので何かのこと事柄に対して心は善ともなり、悪ともなるからであり、その事柄が去ればまた元の空虚に帰してしまうものだからである。

そうした善と悪との間に揺れ動く生きていかなくてはいけない社会の中で、政治が正しく行われている今の時代を何不自由なくゆったり暮らしている人は、本当に人間らしい人なのだから、決して普通の人間などとは言えない。

一般人にとって一生の一大事は世渡りの道だから、士農工商はもとより、僧侶・神官に限らずどんな職業でもお金の神様のルールに従って、倹約し金銀をためなければならない。

この金銀こそ両親を別にして、命の親ともいうべきものである。

だが人の命は長いものと思っても翌朝にはどうなるか分からないし、短いと思ってもその日の夕方には死ぬかもしれない。

だからこそ中国の詩人も「天地は万物を宿す宿屋のようなもので、歳月は永久に過ぎ去る旅人のようなもの。人生は夢まぼろしのようなものだ」と言っている。

本当に人の命はほんのわずかの間に火葬の煙と消え失せてしまうもので死んでしまえば金銀はとても役に立たないものである。とはいうものの、残しておけばその子孫のためにもなるものだ。

ひそかに考えてみると、この世で人間が願うことのなかで、金銀の力でかなわないこととは天下・生・老・病・死の5つがあるだけで、それ以外にはない。とすれば、金銀にまさる宝がほかにあろうか?

誰も見たことのない島の鬼が持っていると伝えられる、人の姿を隠すという隠れ笠や隠れ蓑を手に入れても、にわか雨の時の役には立たないから、そんな手の届くことのないような非現実的な願いは捨てて、手近なところでそれぞれの家業を励むのがよいのだ。

また幸運をつかむには、身も心も健康であることが肝心だから常に油断してはならない。

特に世間の筋・道理を第一として神仏をまつるのが良い。これこそが日本の風俗なのだ。

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季節は山も春めく2月の午の日、泉州に鎮座する水間寺の観音に、貧乏人も金持ちも男も女も参拝していた。みな信心からお参りするのではなく、欲があっての参拝で、はるかに続く苔むす山路をたどり、ヒメハギや荻の焼け原を通り抜け、まだ花も咲かない田舎までやってきて、この仏に祈願することと言えば、その身分相応の金持ちになる事を願うのであった。

この御本尊の側からしても一人一人に御返事してもきりがないから「今このせちがらい世の中に一獲千金のぼろもうけはない。わしに頼むまでもなく、農民には農民に値する職分があるものだから、夫は畑を耕し、嫁は機を織って朝から夕方までその仕事に精を出すのが良い。農民だけではなくすべての人は皆この通りです。」と扉越しにお告げをなさるわけであるが、誰もそんなことを感じたり聞いたりしないのは情けないことだ。

この世で借金の利息ほど恐ろしいものは無い。

このお寺では参拝する人たちがお金を借りる風習があった。その年に1文借りたら来年は2文にして返し、100文借りれば200文にして返済することになっていた。

なんといっても観音様のお金だからみんな間違いなくお返しする。

たいていの人は5文とか3文とか、10文以内を借りるのであったが、ここに23歳くらいの体つきが太くたくましい、身なりの質素な髪を雑に縛った信長時代に仕立てたような古風な着物姿の一人の男が来て、人目かまわず尻からげにして、参詣したしるしに名物の山椿の枝に野老を入れた髯籠をくくりつけて担ぎ、帰りがけにご仏前に立ち寄って「借り銭1貫文!」と申し入れた。

寺の係りの僧は貫ざしのままお金を渡し、その住所も名も尋ねないうちにその男は消え去ってしまった。

後で寺僧が集まって、「この寺開山以来1貫文ほどの銭を貸したためしは無い。借りたのはこれが初めてだ。きっとこの銭が返されることはない。今後は多額に貸さないほうがよい。」と話し合った。

その男の住所は武蔵の国江戸で、小網町の片端の漁師相手の船着き場で船問屋をしていたが、しだいに商売が繁盛するのを喜び、掛け硯に「仕合せ丸」と書きつけて、その中に水間寺から借りた銭を入れておき、漁師の出船の時、銭の由来を語って100文ずつ貸し付けたところ、借りた人は自然と幸運に恵まれるという事が遠い漁村にまでも評判になったので、その返済する銭がさっきの分から次々に毎年集まって、1年2倍の計算にして、13年目には元1貫文の銭が8192貫文に増えてしまった。

そこでこれを通し馬に乗せて東海道を運び、水間寺に積み重ねたので、これを見た僧たちは感嘆し、その後いろいろ相談して、「のちの世の話の種にしよう」という事になり、都から大勢の大工を呼び寄せて宝塔を建立した。ありがたいご利益というものだ。

この商人の内蔵には常夜灯が輝き、その家名は網屋と言って、広い武蔵の国に知らぬものはない人だった。

一切親の遺産など譲り受けず、自分の商才で稼ぎ出して、500貫目以上になれば、これを分限という。1000貫目以上を長者というのである。

この金の勢いでは、利が利を生んでいく千万貫にもなり、末長く繁盛することだろうと、網屋では万歳楽の祝言の謡で祝っていたのであった。




2016年6月29日水曜日

巻1(2) 二代目に破る扇の風

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金持ちになっても、教育をしっかりしないと子供を不幸にしてしまうお話

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徒然草には「人の家にありたいものは梅・桜・松・楓」とあるが、それよりあってほしいものは金銀米銭であろう。

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庭の築山にまさるものは庭蔵の眺めで、そのなかに四季折々の商品を買い込んで値上がりを待つのは、これこそ現世の喜見城の楽しみだと決め込んでいる男がいた。

この男は、今のにぎやかな京の都に住んでいながら、四条の橋を東へ渡って祇園・八坂の芝居茶屋に近寄らず、大宮通りから丹波口の西の島原の廓へも足を向けなかった。

また、寄進などさせられないように、諸寺の坊主を寄せ付けず、浪人どもにも近づかず、少しの風邪気や腹痛は手製の薬で間に合わせ、昼は家業を大事につとめ、夜は外出せずに内に居て、若い自分に寺子屋で習っておいた小謡を両親に遠慮して地声でこっそりとうたい、自分ひとりのなぐさみにしていた。

しかも、灯火の光で謡の本を見るわけでもなく、覚えた通りにうたうだけで、無駄になることは教えられたとおり何一つしなかった。

この男は一生のうちに草履の鼻緒を踏み切ったことがなく、釘の頭に袖を引っ掛けて破ったこともなく、万事気を付けてその身一代に2000貫目もの大金をしこたまためこんで、88歳まで長生きしたので人々はそれにあやかりたいものだと、米寿にちなんで縁起物の米の升の表面を平らにする竹の升掻きを切ってもらった。

ところが、人の寿命には限りがあるもので、このおやじもその年の時の雨の降る頃ふとした病にかかったかと思うと、あれこれ気をつかう暇もなくポックリといってしまい、あとに残された一人息子がその遺産をまるまる相続して、21歳にして生まれながらの長者となった。

このせがれは親にもまして倹約を第一にして、大勢の親類に対しても箸一本の形見分けもせず、初七日の法事をすますと、はや8日目から店を開いて、商売大事に働き出した。

腹が減っては損だというので火事の見舞いにも早くは歩まず、ケチなことばかりに気をつかっているうちに、その年も暮れ、翌年になると、「去年の今日はおやじの年一回の祥月命日だ」というので、菩提寺にお参りをしたが、その帰り道ではいっそう昔のことを思い出して、涙で袖をぬらした。

「この手織り紬の碁盤縞の着物は、命知らずに長持ちするものだといっておやじ様が着ておられたものだが、思えば惜しい命であった。もう12年も生きておられたらちょうど100歳になる。若死になさって大分の損をしたものだ。」と寿命のことまで損得ずくで考えながら帰ってくると、紫野のほとりの御薬園の竹垣のそばで召し連れていた年季奉公の女が、お寺へ差し上げる精進料理用の時米を入れた空き袋を持った片手に封じ文を一通拾った。

取って見ると「花川様、まいる」と表に書いてあって、「二三より」と裏書し、飯粒で封をした上に念を入れて印判まで押し、なおその上に「五大力菩薩」と墨くろぐろと厳重に書いてある。

「これは聞いたこともないお公家衆の御名であろう」と思い、それからうちに帰って人に尋ねてみると、「これは島原の局女郎のところへやる手紙だろう」と読み捨てようとしたのを、「これも杉原の反故紙一枚の得。損になるわけじゃない。」と思いながら静かに封を開いてみると、1歩の金が一つころりと出てきた。

「これは」と驚いてまず試金石にこすり付けて質をしらべみて、それから天秤にかけて上目で量ってみると、1匁2分の重さきっちりあるので喜び、胸の躍るのをしずめて「思いがけぬ幸せというのはこのことだ。世間の人に話してはならない」と奉公人たちの口止めをしておいた。

さてその手紙を読んでみると、恋や情けはそっちのけで、はじめから「一つ何々」というような書き方で「金まわりの良くない時節柄の迷惑な御無心ではあるが、我が身にかえて愛しく思うお前様のことだから、春の給金を前借してお届けします。このうち銀2匁はいつぞや遊んだ時の勘定にまわして下さい。残りは皆差し上げますから、年々つもった借り銭をすましなさい。

いったい人間には、その身代相応の考えというものがあるものだ。

大阪屋の太夫野風殿に西国筋の大尽が菊の節句の入費といって、1歩金を300も贈られたのも私が前にあげたたった1歩金1つも志に変わりはありません。金がありさえすれば、なんで出し惜しみなどしましょう」と哀れな文章であって、読めば読むほど気の毒になってきて、「なんとしてもこの金を拾ったままにしておいてはおけない。

この金に込められた男の執念もおそろしい。だがこの男に返そうにも居所が分からない。いっそ行き先の知れている島原へ行って花川とかいう女郎をたずねて渡してやろう。」と思い立って、少しは鬢のほつれをなおしたりして家を出るには出たが、道々せっかく拾った1歩をただ返すのも惜しいような気もして、5度7度も思案しながら歩いているうちに、とうとう島原の門口についてしまった。

立派な門構えなのですぐには入りかねてしばらくためらっていると、そこへ揚屋から酒を買いに行く男がやって来たので近寄って、「この御門は無断で通りましても差し支えはござりませぬか?」と言うとその男は返事もせず、顎をしゃくって教えた。

それではと編み笠を脱いで手をさげておそるおそる中腰に身をかがめて、ようやく出口の茶屋の前を通って女郎町に入り、一文字屋の太夫唐土が、揚屋入りの道中姿でやってきたので近寄って、「花川様と申すお方はどちらでございましょうか」とだずねると、太夫は遣り手の方へ顔を向け、「私は存じませぬ」といって、すげないそぶりをするばかりであった。

遣り手は青暖簾のかかっている局女郎の見世を指して、「どこぞそのあたりで聞いてみなされ」と言うと、後についていた下男が目に角を立てて、「その女郎を連れてきてみろ、見てやろう」と言う。

「連れて来られるくらいなら、お前様方におたずねはいたしませぬ」といって後ろに下がり、あちこち尋ねまわってようやく捜し当てて、様子を聞くと、花川は2匁取りの安女郎で、この2、3日は気分が悪くて引きこもっていると見世の者が面倒そうに言うので、手紙を渡しそびれたまま帰ろうとした。

その時、ふと思いがけない浮気心が起こり、「もともとこの金は自分の物ではない。一生の思い出にこの金だけということにして、今日1日遊べるだけ遊び、老後の話の種にでもしよう。」と決心したが、1歩金だけでは揚屋町で上級の遊女である太夫と遊ぶことなどは思いもよらないので、出口の茶屋に行って、藤屋彦右衛門という家の二階に上がり、昼間の揚げ代9匁鹿恋女郎を呼んでもらい、呑み慣れない酒に酔って浮かれた。

ところが、これを遊びの手習いはじめとして、女郎と恋文のやりとりも覚え、しだいに遊びの格が上がって、太夫を片っ端から買いはじめ、折も折とて、都の太鼓持ちの四天王と呼ばれる願西弥七、神楽庄左衛門、鸚鵡吉兵衛、乱酒与左衛門の4人に仕込まれ、まんまとこの道の通い人となり、後にはおしゃれな道楽の身なりも、この男をまねるようにさえなって、扇屋の恋風様とおだてられて派手に散財した。

人の運命とは分からぬもので、色里に姿を見かけるようになってから4、5年のうちに、2000貫目の財産は塵も灰もなくなり、火を吹く力もなくなって、残った家名にゆかりの古扇1本を片手に門付となり、「一たびは栄え、一たびは衰うる」と、我が身の上を謡う、その日暮らしの身となってしまった。

そのなり行きを見るにつけ聞くにつけ、「近頃では儲けにくい銀を、よくもまあ使い果たしたものだ」と身持ちの堅い鎌田屋の何がしという金持ちが、子供らのいましめにこれを語って聞かせたという。


2016年6月28日火曜日

巻1(3) 浪風静かに神通丸

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お金は、その人の思考パターンや性根によって増えたり減ったりするお話

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諸大名はいったいどんなよい種を前世で蒔いておかれたのであろうか?

万事につけて自由にふるまう様子を見たときこの世の仏のように幸せな方は大名の他にはいない。だからこそ世間では、大名の禄高を120万石とすると毎年500石取りの侍が釈迦如来入滅の年以来2000年の今日まで毎年禄をもらい続けてきたと計算してみても、未だにこれを取りつくさないという計算になると言っている。

大身、小身の違いはあるけれども世界は広いものだ。

近頃大阪和泉に唐金屋といって金銀に豊かな人が出現した。大船を作ってその名を神通丸と名付け、3700石積んでも船足が軽く、北国の海を自由自在に乗りまわして、難波の港に北国米を運んで商売し、次第に家が栄えたのは万事につけてこの男のやりくりが上手だからであった。

そもそも北浜のコメ市場は大阪が日本一の港であればこそであり、2時間ぐらいの間に銀5万貫目の立会いの取引もできるのである。その米は蔵々に俵の山と積み重ねられ、商人達は夕方の嵐でも朝の雨でも気を配り、日和を見合わせ、雲の様子を考え、前夜のうちに相場の予想によって売る人もあり、買う人もある。

1石について1分・2分の相場の高低をあらそい、人が山のように集まり、互いに顔を見知った人には千石・万石の米をも取引するのだが、いったん2人が契約の手打ちをした後は、少しもこれに違反することはない。

世間で金銀の貸借をする場合には、借用証書に保証人の印判まではっきりと捺して、「いつでも御用があり次第に返済いたします」などと定めたことでさえ、その約束の期限を延ばして訴訟沙汰になることがあるのに、このコメ市場では定めのない空模様のようにあてにならない契約をたがえず、その約束の日限どおりに損得をかまわず取引を済ますのは、さすがに日本一の大商人の太っ腹を示すものであり、またそれだけ派手な世渡りをしているのである。

難波橋から西を見渡した風景はさまざまにひろがっており、数千件の問屋が棟を並べ、蔵の白壁は雪の曙以上に白く輝き、杉の木の形に積み上げられた俵はあたかも山がそのまま動くかのごとく馬に積んで運ぶと、大道はとどろき、地雷が破裂したかのようである。

上荷船や茶船が数限りもなく川波に浮かんでいるさまは、まるで秋の柳の枯葉が水面に散らばっているようである。米刺しの竹の先を振り回しながら先を争って検査して回る若い者の威勢のよさはさながら虎の座る竹林のように見え、大福帳の紙をめくるさまは白雲の翻るようであり、そろばんをはじく音はあられのたばしるようである。

天秤の針口を叩く音は昼夜12の時を告げる鐘の響きにもまさり、家々ののれんは風にひるがえってその繁盛を示している。商人が大勢いる中に中の島の岡・肥前屋・木屋・深江屋・肥後屋等々がこの土地に久しく住んでいる金持ちで、表向きの商売はやめて金融業などで多くの使用人をかかえて豊かに暮らしている。

昔あちこちに住んでいたちいさな使用人たちもうまく出世すれば旦那様と呼ばれて履き替えの草履取りをお供に持たせて歩くような身分にもなるが、これらはみな大和・河内・摂津・和泉付近の百姓の子たちである。

それらの農家では、長男を家に残して次男以下を丁稚奉公に出すのであるが、鼻たれで手足の泥臭さが抜けないうちは豆腐・花柚などの小買物に使い走らされるのであるが、お仕着せの2,3枚もいただいて歳を重ねてゆくと自分の定紋をつけるようになり、髪の結い方を吟味し始め、風采も人並みになるにつれて、主人の供を仰せつかり、能や舟遊びにも召し連れられ、「行く水に数書く」と古歌にあるとおり、砂で手習いして字を覚え、足し算引き算も子守の片手間にそろばんを置いて習う。

いつの間にか角前髪の年頃になってからは、掛取りの銀袋をかついで出歩き、やがて順送りの手代見習いの身分になると、見よう見まねで主人の内緒の商売をたくらみ、儲けは黙って懐に入れ、損は主人に被らせて、肝心の身を固める時になってそれがバレてしまい、親や保証人に迷惑をかけ、使い込みを弁償しようにも金銀の出どころがなく、結局はそのまま示談で片がついて、行く末はしがない行商人の身の上となる者が数多くいる。

とかく人間は己の性根によって落ちぶれもすれば長者になもなれるのである。

一体大阪の金持ちは代々続いているのではない。おおかたは吉蔵や三助と言われた丁稚が成り上がって金持ちになり、羽振りが良くなって詩歌・毬・楊弓・琴・笛・鼓・香の会・茶の湯も自然に覚えて、上流の人とも付き合うようになり、昔の田舎なまりも失くなってしまうのである。

とかく人は境遇次第であり、公家の御落胤でもおちぶれて、造り花をして売るようになるのである。

これを思うに方向は、よい主人を選ぶのが第一の幸せである。そのわけは、繁盛しているところに奉公するのが必ずしもいいとは限らないからだ。

大阪北浜の過書町(金融街。東の兜町・西の北浜)のほとりに住んでいた指物細工人がいたが、この職人にも年少の弟子が2人いて、彼らは新屋九右衛門・天王寺屋五兵衛などといった大きな両替屋の、10貫目入りの銀箱をふだん作っていたのでその箱の寸法は覚えているものの、その中に入れるぎんはついぞ手に取ったことがなかった。

やがて、この弟子が成人して自分の店を出したが、元の親方と同様に鍋蓋や火打ち箱などの作り方以外には何も知らなかった。この者たちにしても、もしも同じ北浜の繁盛の土地にふさわしい大きい店に使われていたら相当の商人になったかも知れなかったのに、その始終を見ているとふびんでならない。

ことわざに「身過ぎは草の種」と言うように、世渡りの道という者は草の種のようにいくらでもあるのだ。

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この北浜に九州米を水揚げする際、米刺しからこぼれ落ちる筒落ち米を掃き集めてその日暮らしをする老女がいた。

顔がよくなかったので23歳で後家になり、後夫になってくれる人もいなく、ひとりだけのせがれの行く末を楽しみにみじめな年月を送っていた。

いつの頃からであったか、諸国の田租(税金)の率が引き上げられたので、諸大名の年貢米が増えて、この裏にも米船が大量に入港し、昼夜かかっても陸揚げしきれず、借り蔵もいっぱいになってしまい俵の置き場所もなくあちこち運び変えるごとにこぼれ落ちる米を、この老女はチリと一緒に掃き集めたのであったが、朝夕食べても食べきれない量になってきたので、溜めていたら1斗5升ぐらいになった。

欲を出して倹約してためてみるとその年の内に7石5斗まで増えたので、これをひそかに売って翌年はなおまたそのように増やしたので、毎年増え続けて20年余りの間にへそくりの金が12貫500目になった。

それからはせがれも遊ばしておかずに、9歳の頃から桟俵の廃品を拾い集めさせて俵で財布を作らせて、両替屋や問屋に売らせ、人の気づかないようなところで銭儲けしてゆき、やがてせがれは自分の腕で稼ぎ出し、のちには確かな人へ小判の1日貸しや、はした銀の当座貸しを始めたが、これから思いついて、今橋のほとりに両替屋を始めた。

すると田舎から出てきた人たちが立ち寄って両替するので暇がないくらい繁盛し、朝から晩までわずかの銀貨を店に並べて丁銀を小粒銀に替えたり、小判を豆板銀に替えたり、暇なく秤に銀貨を掛けるようになり、毎日毎日の儲けがつもって、10年もたたぬうちに両替仲間の一流になった。

本両替屋の弟子もこの男に腰をかがめ、機嫌を取るほどになった。

毎日の小判市場もこの男が買いだせば急に相場があがり、売り出すとたちまち下り目になるのだった。

そのため、自然と人々はこの男の意向をうかがい、皆々手をさげて、旦那旦那と敬った。

中にはこの男の素姓をとやかく言って「なんだ、あんな奴の言いなりになって世渡りするのは残念なことだ」という我を立てるやつもいたが、急に銀が必要な時はさしあたって困り果ててその人に借りるのであった。

全くそれらは金銀の威勢そのものという事である。

後には大名相手の御用商人となり、あちこちの屋敷に御用入りをもっぱらとするようになったので悪口を言う人もいなくなり、お歴々の町人と結婚して、家蔵をいくつも建てて、母親が使っていた筒落ち米掃きのわらしべ箒と渋団扇を「貧乏をまねくと世間では言うがこの家にとっては宝物だ」として西北隅にしまって置いていた。

諸国をまわってみたが、今でもまだ稼いでみるべきところは大阪北浜であり、ここはまだ流れ歩く銀もあるということだ。




2016年6月27日月曜日

巻1(4) 昔は掛算今は当座銀

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人のやっていない現金商売のアイデアをシステム化させると、お金がやってくるというお話

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昔と違って人の身なりもぜいたくになってきて、特に妻や子供の服装を着飾るのは罰当たりレベルの身の程知らずだ。

公家・貴人でも京織りの羽二重で、武家は黒羽二重の5つ紋なのにもかかわらず、近年は都会人は新しく工夫して小紋模様やももいろ染め、鹿子染めと派手になった。

そのせいで、娘が結婚するときや嫁に金がかかるようになって財産が減り、家業に影響が出るようになった人も出ている。

遊女が着飾るのは商売のためであって、一般の夫人は花見・もみじ見・婚礼以外は目立つ衣装は必要ないのだ。

あるとき、京都室町の片脇におしゃれな橘の紋の看板をつけた、流行り衣装の仕立てに腕利きの職人をそろえた和服製造店があり、お客さんが絹・綿を持ってきて仕立ての注文が殺到した。

仕立て糸を縫ってアイロンをかけて着物が出来上がるのを待っているお客までいる。昔はこんなことはなかった。さらには高級中国製の服を普段着にしている奴までいる。

こういう時期に出された衣服制限法は日本のためだとありがたく思う。商人が上等のシルク服を着ているのは見苦しいことである。紬のほうが身分にふさわしいく見た目もよい。

だけども武士は威厳を持つべきだから、部下がいなくても町民並みの服装ではダメだ。

近年江戸は平和になり、江戸城本丸から常盤橋につながる本町の服屋は、京都が本社にあり、支店長や課長がお得意先のお屋敷に直接うかがい、口達者で凄腕の腕利きばかり。知恵も才覚もあって商売に油断がない。

計算も得意で売り上げの回収は確実に行い逃げられるようなへまもしない。利益のためには生きた牛の目をえぐるほどの速さで行動し、呼ばれれば虎ノ門を夜中でもうかがい、朝は日が昇る前から起きて仕事をし、日が暮れてもお得意様のご機嫌を伺うほどの気合の入れようだ。

今は武蔵野エリアが儲かるといっても、以前と違ってもはや隅から隅まで行き渡っているのでぼろ儲けは出来ない。

昔は婚礼や江戸城の新入社員入社シーズンでは、受け持ちの支店長が江戸城の調達部の好意で一儲けしたものだが、いまは入札にさせるようになったのでわずかな利益に群がって互いにじり貧になり、世間体でお付き合いしている状況となっている。

また、多額の売掛金は数年未払いとなっており、その儲けは京都の両替屋の利息よりも少なく、為替の支払いにも困っている状況ではあるが、かといって今までのお付き合いもあるので閉店するわけにもいかず自然に小規模な経営になってしまうのである。

結局商売が合わないから江戸店だけは残るけれども損害は何百貫にもなってしまい、大損しないうちに商売替えして経営を立て直そうと思案する実機に来ているのだが、これまたうまい商売の道があるものだ。

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三井八郎右衛門という男は、豊富な資金をもとに昔の慶長小判と関係のある駿河町で間口9間、奥行き40間のいままでにない広い店をオープンさせ、すべて現金売りで売掛なしルールのデパートのような現金商売の店とし、40人のエリートを自由に操って一人に一種類の品物を担当させた。

例えば金襴類に1人、日野シルク・郡内シルクに1人、羽二重服に1人、沙綾服に1人、紅絹服に1人、麻の袴に1人、毛織服に1人といった具合に手分けして売らせて、おまけにベルベット調の布1寸四方でも、小さい大きさの緞子生地でも、大きさにこだわらずに自由に売り渡した。

特に出世などで部署が内定した侍が上司にお目見えする際の礼服や、急ぎの羽織などは、侍の使いに待たせておいて、数十人ものお抱え職人が即座に仕立てて渡した。

そんな感じで商売が繁盛し、毎日平均金150両の売り上げを上げたという。

利便性を追求するというのはこういう店のことなのだ。

この店の主人は目鼻手足があってほかの人と全く変わらないのに、家業のやり方にかけては人と違って賢かった。大商人のお手本であろう。

いろは順に並んだ引き出しに中国や、日本の絹布をたたんで入れておき、そのほかにも例えば姫の手織りの蚊帳や、阿弥陀如来のよだれかけ、朝比奈が着ていた舞鶴の家紋のある布、おしゃれな達磨大師柄の座布団、林和靖がかぶった頭巾、様々な時代の絹などなどちょっと話を盛ってはいるが、あらゆるものをととのえ、ないものは無いほどの品ぞろえであった。

また、あらゆる品の在庫管理までしっかりしていて、ほしいものがすぐに出てくるのは、まことにめでたいことです。




2016年6月26日日曜日

巻1(5) 世は欲の入札に仕合せ

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嫁の選び方には十分に注意せよ。娘の嫁がす相手には十分に注意せよというお話

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用心しなさいよ、国には盗人がいて、家にはネズミがいる。というのだが、後家に入り婿も似たようなものだから、ことをいそがず念を入れたほうがよい。

今どきの仲人は親切心だけで世話をするものではなくその持参金に応じて、たとえば50貫目の持参金がつけば5貫目の手数料を取るのだという。

このように持参金の一割も出して、嫁を呼ぶ家に娘をやるのをみると、その嫁入り先の資産のほどが気がかりになって、心もとない。

娘の縁組は一代に一度の取引で、もしこれで損をしたら取り返しのつかないことであるから、よくよく念を入れた方がよい。

世間の風潮を見ると、豊かな人で外観を飾らない人は稀である。その人の分際以上に万事を華美にするのが近年の人心であるが、これはよくないことだ。

嫁取り頃の息子のある人は、まだする必要のない家の普請や部屋の建て増しをし、諸道具を新調し、下男下女を増やしたりして、裕福に見せかけ、実は嫁の持参金を望み、それを商売の足しにしようとするのであって、その今生はまことに恥ずかしい両簡である。

世間への見栄のためだけに、送り迎えの女乗物を仕立てたり、親戚一同の間の交際で競べをしたりして、無駄な入費がかさみ、間もなく身代に穴があいて、穴のあきそうな屋根も葺くことができず、結局家の破滅とはなるものである。

あるいはまた、娘を持っている親は、自分の資産以上に先方の家の立派なのを好み、財産のほかに婿の男ぶりがよく、諸芸のたしなみがあって、人の目に立つくらいなのを聞き合わせて縁組しようとするが、小鼓を打つ者は博打を打ち、実直な手代らしく見える者は、遊女狂いがやまなかったり、一座での社交ぶりがうまいと人がほめると、その男は野郎遊びに金銀を使うものであったりする。

こうして考えてみると、男ぶりがよくて家業に抜け目がなく、世情に通じており、親孝行で、人に憎まれず、世のためになるような若者を婿に取りたいと尋ねまわっても、そんな者がいるはずはない。もしいるとしたら、よいことがありすぎて返って難儀があるものだ。

高貴の方にさえ欠点はあるものだから、まして下々の者は10に5つくらいの不満は大目に見て、小男であろうと禿げ頭であろうと、商いの応待や駆け引きが上手で、親から譲られたものを減らさない人なら縁組したほうがよい。

「あれは何屋の誰殿の婿だ」と噂され、五節句には袴・肩衣を折目正しく着て、紋付の小袖に金拵えの小脇差を差し、あとに丁稚・手代・鋏箱持ちを連れた当世風の男は見た目も派手で、娘の母親が喜ぶものである。

だがそれも、自己破産になってしまえば衣類も脇差もみな人手に渡り、ブ男が紬を花色小紋に染めて着たり、あるいはまた裏付の木綿袴をはいたのよりも見劣りがするものだ。

嫁も身分の高い家は別として、普通の町家の女は琴を弾く代わりに真綿を引き、きゃらを焚くよりは薪の燃え渋って消えそうになるのを上手にさしくべる者の方がよい。

それぞれに身分相応な身の持ち方をすることこそ見よいものだ。

世間体ばかりをかざって、皆偽りを通して暮らしている世の中に、時雨だけは偽りなく時節になると降りはじめるが、その時雨が正直に降る奈良坂を超えた春日の里に晒布の買い問屋をしている裕福な松屋の何某という人があった。

昔は今の秋田屋や榑屋にまさって繁盛し、満開の八重桜のように栄え、この奈良の都で華美を尽して春を豊かに暮らし地酒の辛口をたしなみ、鱶の刺身を好んで贅沢に月日を送っていたが、この家も次第に衰え、天命を知るという50歳になって、平生の不養生がたたってにわかに死んでしまった。

妻子に多額の借金を残して、その家督を譲ったわけだが、人の身代は死んでからでないとわからないものである。

この後家は今年で38歳で小柄な女であり、ことにきめが細やかで色白く、ちょっと見には27、8とも思われる、人好きのする当世風の女房であった。

亡夫の跡を弔うことを忘れて再縁もしかねないような容姿であったが、まだ幼い子供のことをかわいそうに思って、人から貞操を疑われないように髪を切り、白粉もつけず、紅をつけていた唇も色さめて、男模様の着物に好んで細い帯を締めるというような固い身持ちであった。

才覚は男にまさっているのだが、女の身で鍬も使われず、柱の根継をしようにも女の手細工ではできないので、いつとなく雨の漏る軒に忍草が茂り、屋敷の庭も野原と見えるほどに荒れ果て、鹿の声もふだん聞くよりは悲しく聞こえるようになり、恋しさ、懐かしさなどは去っても生活の上で亡き夫のことが頼もしく思い出され、女ばかりでは暮らしの立てにくいことを、今という今身にしみて感ずるのであった。

今どき後家を立て通すというのは、夫の死んだあとにたくさんの金銀家財があって、それをものにしたい欲心から、女の親類が意見して、まだ若盛りの女に無理やり髪を切らせ、気乗りのしない仏の道を薦め、亡夫の命日を弔わせる場合である。

ところが、こんな場合は必ず浮名が立って、家に古くから使っている手代を旦那にするといった例は所々で見かけることである。こんなことになるよりは他へ復縁したほうがましで、それなら人の笑うことではない。

それにつけても、かの松屋後家こそは世の人の鑑であった。いろいろ渡世の工夫をしてみても思うようにいかず、昔の借金を済ます方法も見つからず、しだいに貧しくなってきた時、一世一代の知恵をしぼり、「住宅の債権者の方に引き渡しましょう」と申し出ると、皆々は同情して今すぐ受取ろうという者は一人もいなかった。

もっとも借り銭は5貫目あって、この家を売ってみても3貫目以下の値打ちしかないのであった。

そこで後家は町中の人に嘆願して、この家の頼母子の入札にして売ることにした。

一人につき銀4匁ずつ取って、札に当たった人に家を渡すというので、「えいままよ、損したところで銀4匁だ」と札を入れたので、3千枚の札が入って、後家は銀12貫目受け取り、5貫目の借り銀を払って7貫目残り、再びそれを元にして金持ちになることが出来た。

その一方、人に召し使われていた下女が札に当たってわずか4匁出すだけで家持ちになったということであった。




2016年6月25日土曜日

巻2(1) 世界の借屋大将

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常にアンテナを張った情報集めと、合理的な倹約は大切というお話

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「賃借証明、室町菱屋左衛門殿の借家に住む藤市氏は、確かに1000貫目を持っています。」と借家証文に書いてある。

この藤市氏は「この広い世界で一番の金持ちは俺だ」と自慢していた。その理由に2間間口の商店の借家住まいなのに、1000貫目の財産を持っていたからだ。

このことは京都で評判になっていたが、たまたま烏丸通りにある28貫目の貸していた金の抵当権に家を当てさせていたのだが、利息がたまって抵当が流れて家が自分のものになり、家持ちになってしまった。

藤市はこれを残念がった。なぜならば、今までは借家住まいだからこそ金持ちと言われ続けてきたのだが、これからは家持ちになってしまったので1000貫目ぐらいでは、京都の一流町人と比較して大したものではなくなってしまったからである。

この藤市は利口な人間で、自分一代で金持ちになったのであった。

第一に人間は健康で堅実であることが世渡りの基本だ。

この男は家業の他にノートを常に持って店にいて、一日中筆を握って、両替屋の営業が通ると銭や小判の相場を聞いてノートし、米問屋の営業には米の取引相場の値段を聞き、生薬屋や呉服屋の営業には長崎の情報を聞き出し、繰り綿や塩、酒の相場は江戸支店から書状が届いたのを記録するという具合に、毎日万事の相場を書き留めておくので、分からないことはこの店に尋ねれば分かるという事で、情報屋として京都中から重宝がられた。

藤市の普段の身なりは質素で、大した服を着ていなかった。袖口が擦り切れないよう袖覆輪をしていたが、この人がやり始めて広まった。これで町人風俗の見た目が良くなり、経済的にもなったと思う。

また、大通りを歩かず、一生のうちに絹の着物を着たのは紬だけであったが、それすらも若気の至りと20年もの間悔んでいた。

礼服も汚れぬよう折り目正しくきれいに畳んでしまっていて、町内付き合いで葬礼には仕方なくお墓に野辺送りしたが、行列は一番最後に歩き、せんぶりなどの生薬の花を見つけると「これを陰干しにしておくと腹薬になるぞ」とただ歩くことはなく、けつまずくようなところでも火打石を見つけて懐にしまうのであった。

朝夕毎日ごはんをつくらなきゃならない所帯持ちは、万事このように気を付けるべきである。

この男は生まれつきケチなのではなく、万事このようなやり方を人の模範となりたくてやっていた。

これほどの金持ちになっても、年の暮れになっても家で餅をついたことはなかった。忙しい時に人手を使うことになることになるし、餅つきの道具を買いそろえる費用を考えると、大仏前の餅屋に注文して、1貫目につきいくらと値段を決めて注文し、すべて計算づくでやっていた。

ある年の12月28日の早朝に餅屋が忙しそうに餅をかつぎ込み、藤屋の店に並べて「受け取りお願いします。」と言ってきた。餅はつきたてで正月気分にもなりうまそうに見えたが、藤市はソロバンをはじいて忙しそうにしながらそれを無視した。

餅屋も季節がら忙しかったので何度も催促した。気の利いた社員が秤できっちり量り、餅を受け取って帰した。2時間ほどたって藤市が「今の餅は受け取ったか?」と聞くので、「さっき餅を受け取って帰しました。」と答えると、「この会社に働く価値のない奴だ。ぬくもりの冷めない餅をよく受け取ったものだ。重さを量ってみろ」というので、量ってみると水蒸気が抜けて目方が減っており、社員は呆れてまだ食いもしない餅に口を開けてしてしまった。

その年も明けて夏になり、東寺の付近の村人がなすびの初物を籠に入れて売りに来たが、初物を食べると75日命が伸びるという事から、これも楽しみの一つだと1つ2文、2つで3文と値段を決めるとみんな2つ買った。ところが藤市は1つを2文で買って言うには「あとの1文で、出盛りの時には大きいのが買える。」と、気を付けるべき点にぬかりはなかった。

屋敷の空き地に柳・柊・桃の木などを取り混ぜて植えておいたのは一人娘のためであった。よし垣に自然に朝顔が生えかかると、「同じ眺めるのであれば、漬物に出来るなた豆のほうがいい」と植え替えてしまった。なによりも我が子の成長を見るほどおもしろいものはない。

藤市も娘が年頃になったので、嫁入り屏風をこしらえてやったが、「京都の名所づくしの絵を見たら行きたくなるし、源氏物語や伊勢物語の絵だと浮気心がでてくるから」と、多田の銀山の最盛期の有様を描かせた。

こうした心がけから、みずからいろは歌を作って読み習わせ、女の子の通う寺子屋へもやらずに家で手習いを教え、ついに京一番の賢い娘に育て上げた。娘の方も親の始末・倹約ぶりを見習って、8歳で手習いを始めてから墨で袖をよごさず、3月の雛遊びをやめ、盆踊りおどらず、毎日髪も自分ですいて丸髷に結い、身の回りのことは人の世話にならず、習い覚えてきた真綿の引き方も、着丈の縦横いっぱいに行き渡るように仕上げるのであった。

とかく女の子は遊ばせておいてはならぬものなのだ。

織から正月7日の夜、近所の人々が、息子たちを藤市の家へ「長者になるための心構えの指導をたのむ」と言ってよこした。藤市のほうは珍しく座敷に灯火を輝かせ、そばに娘をつけておき、「路地の戸の鳴る時に知らせなさい」と言いつけておくと、娘は感心にもかしこまり、油がもったいないので答申を一筋に減らして待っていたが、訪れの声が聞こえてくると元の明るさに戻して台所に入った。

3人の客が座に着いたとき、台所の方ですりばちの音が高く聞こえたので、客はこれを聞いて喜び、1人が当て推量して「皮鯨の吸い物だろう」といえば、もう一人が、「いやいや正月はじめてきたのだから雑煮だろう」という。また一人はよく考えて、「煮麺にちがいない」といって話はそこに落ち着いた。

こんなケースでは誰もがついつい話してしまう内容だが、バカなことだ。

やがて藤市は座敷に来て3人に世渡りの秘訣を語って聞かせた。

一人が言うには「今日の七草といういわれはどういうことでしょうか」と尋ねた。「これは神代の倹約はじめであり、雑炊であるという事を教えてくださったのだ。」と答えた。

また一人が「掛け鯛を6月まで荒神様の前に置くわけは?」と言うと、「あれは朝夕に魚を食べずに、これを見て食った気になれ、ということだ」と言った。

また一人が、正月に太箸を使う由来を尋ねた。藤市は「おあれは汚れたときに白く削って一膳の箸で一年中済ませるようにしなさいということで、これも神代の二柱の神をあらわしたものだ。よくよく万事をお気をつけなさい。さて夜から今まで皆さんはお話なさったのだから、もうそろそろ夜食でも出る時間ですが、それを出さないのが長者になる心がけだ。先刻のすり鉢の音は大福帳の表紙に引く糊をすらせていたのだ。」と言った。




2016年6月24日金曜日

巻2(2) 怪我の冬神鳴

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借金はするな。不測の事態に備えて貯金しておけというお話

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近江の琵琶湖のように大きい湖に沈めても1升の壺には1升しか入らない。

大津の町に喜平次という者が住んでいた。ここは北陸地方の物産の船着場でにぎやかな東海道の宿場なので、馬や駕籠を乗り替えて荷車をとどろかし、人足はせわしく働きづめのお土地柄である。ここなら蛇の寿司や鬼の角細工みたいな珍しいものを売ったって売り切れてしまうような活気があった。

近年ここの問屋町は皆長者のようになって、家の造りも昔と違って2階には三味線の撥音がやさしく聞こえて、柴屋町の廓から遊女を呼び寄せて、昼も夜も盛り上がっている。天秤の針口を叩く音が響き渡り、金銀もあるところにはあるもので、ここではまるで瓦や石のようなものである。

「人の身代ほど高低差のあるものはない」と喜平次は行商の荷桶をおろして、自分には現実にならないこの世の中をうらやましく思うのであった。

「自分が商いにまわる先々にも世間には所得差の差別があってうまくいかないものだ。賢い人はダサい素紙子(すかみこ)を着て、愚かな人がよい絹物を重ね着している。とかくひと儲けするというのは思慮分別とは関係が無い。

けれども、自分が働かないでは、銭一文にしても天から降ってくることも無いし、地から湧いてくることも無い。また正直にかまえただけでも埒はあかない。つまりは身に応じた商売をおろそかにしないことだ。」と、その日暮らしの生活を楽しんでいた。

関寺のほとりに、森山玄好と言う医者が住んでいたが、世間並みに薬の調剤も出来て、診察は老巧であった。

ある時のこと比叡の山風の寒さによるちょっとした風邪ぐらいの病であったのに全く薬の効かないことがあった。そのため門の案内を乞う声も絶えて、家の中では神農の掛け絵も身ぶるいし、煎じ薬の袋に「煎じよう常のごとし」と書いてあるとおり、いつも変わらぬ衣装であった。

医者も遊女の身と同じで、呼ばれなければ行くところもない。といって家にばかりいては恰好が悪いので、毎日朝の往診のころに外出して四宮神社の絵馬を眺めたり、高観音の舞台に行って、近江八景を眺めたりするのだが、それも朝夕いつも見ていてはおもしろくない。商売がうまくゆかず、暇のあるほどつらいことはないものだ。

人からは絵馬医者とバカにされて残念なことだ。そこである人が世話をして碁会所をはじめ、一番につけて3文ずつ茶代をとって、死なないだけが儲けものだと、どうにかその日を暮している医者もいるわけだ。

また馬屋町というところに、坂本屋仁兵衛殿といって、以前は大商人であったが、多額の銭をなくして、残るものとては家蔵だけとなっていたが、それを売って28貫目を手にして立ち退き、その後34回も商売替えするうちに使い果たしてしまい、今では何をするにも元手がなくなってしまった。

昔の上品な厚鬢も薄くなり、風采までおかしくなったので、「何一つうまくやれぬ男だ。貧乏神の神主にでもなれ」と親戚一門中がこの男を見限ってしまった。

けれども母親は隠居金が10貫目あったので、一人息子でもあったので不憫に思い、「せめてはこれを与えて生活費の種にさせたいものだが、仁兵衛に渡しては1年ももつまい。姉に預けて月に80目ずつ利息をもらい、これだけで5人家族の暮らしを立てなさい。」と言い渡した。

5人家族とは夫婦に子が1人、弟は仁三郎といってせむしでもあり、もう一人は仁兵衛に乳を飲ませた乳母が足が悪くなってほかに頼るところもなくこの家に厄介になっている。

家中見渡したところで出て行けと言えるものはいない。とはいうものの、10貫目の利息で80目取って、その5人暮らしは難しい。

この80目の銀を毎月ついたちに受け取り5匁の家賃を払い、白米の上等品と味噌・塩・薪を買いととのえ、いつもおかずはお新香だけで、その他にはどうしてどうして3月の安い鯛1枚も。松茸1斤がわずか2分の時も目に見るだけ。

喉が渇けば白湯を飲み、ネズミが暴れるのもかまわない。

盆・正月でも着物を新調することなく、年中倹約に身を固め、明けても暮れても不自由な暮らしである。

世間には商いの道を心得ているゆえに、100目に足らぬ銀で7、8人の家族を抱えて楽々と年を越す者もいるのだ。

また、松本の町に一人の後家がいた。

一人娘に振りそでを着せ、菅笠を数らせて田舎なまりを少し習わせて、「抜け参りの者にご報謝願います。」とお伊勢様を売り物にして、この12、3年も同じ嘘をついて世渡りしている女もいる。

また、池の川の針屋は、小さい身代のようだが、その娘を京都へ縁付したいという話を仲人のおばさんが聞きつけて、持参金を銀2000枚は付けるというので飛び回り「もうひと押ししたら銀100貫目までは付けてやることが出来ましょう」とささやいていた。「これにつけても人の家の内情は脇から見ては分からないものである。この大津のうちにもさまざまな家がある。」と醤油を売りまわる

先々で見聞きして、これを喜平次は家に帰って語るのであった。

この男の女房はずいぶん賢く、子供も身ぎれいに育て、人から借金もせず、正月の品物も12がつのはじめ頃から買いととのえ、「大晦日に帳面をさげた借金取りの顔を見ないで済むのは嬉しい。」と暮れの払いをさっぱりと済ましていたが、この幾年か支払いの残りの銭をかき集めても7匁5分か8匁残るぐらいで、ついに10匁を持って年を越したことはなく、「版木で印刷した若恵比寿のようにいつも変わらない我が家の年越しだ」と祝っていた。

ところが、定めのない空によってゴロゴロと冬の雷が12月29日の夜の明け方に落雷してたった一つの大事な鍋釜をこっぱみじんに砕かれて、嘆いてもしょうがないし必要なものなので、新しく買い求めたのだったが、その年の暮れにはその鍋釜を買った分だけの銀が不足したので、わずか9匁を24か所の店から少しずつ掛買して借りてしまい、借金取りのうるさい催促を受けることとなった。

「これを思うと予想が必ず外れるのは世の中の常識だ。俺も雷が落ちないうちは、世の中に怖いものなどなかったのに」と喜平次は悔しがったのであった。

  手に職があっても人の役に立たなければお金は入らない。借金はするな。不測の事態は必ず発生するので、ぬかりなくお金は貯めておけ。




2016年6月23日木曜日

巻2(3) 才覚を笠に着る大黒

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愛する子供がバカをやって落ちぶれても、教育がしっかりしていれば復活できるお話

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京都の3階建ての倉庫を見渡すと一番目立つのはその名を知られた大黒屋の金持ちの倉庫だった。

個々の主人はぜいたくに世を過ごしたいと願って、五条の橋が木造から石橋に架け変わるときに、西側の隅から三枚目の橋板を譲り受けて、板に大黒天の絵を刻ませてお祈りしたご利益があって、それから家は次第に繁盛し、社名を今では誰もが知る大黒屋新兵衛とした。

男の子3人を無事に育てたが、いずれも賢かったので親父の新兵衛は喜んで老後の楽しみを極め、近々隠居をしようと準備していたが、長男の新六が突然金銀を無駄づかいし始めて、金に糸目をつけない女遊びにふけるようになり、半年もたたないうちに170貫目が出納簿から消えてしまった。

新六にはとても手の施しようのない事態になったので、部下たちが心を一つにして、買い込んでいる在庫品の代金に計算の合うように会計を捜査して、やっと盆前の決算を済まして、「これからは道楽はおやめなさい」と言って聞かせたが、新六は一向に聞き入れないで、その年の暮れにはまたもや230貫目も足りなくなった。

こうなってはもう化けの皮も剥げていたたまれなくなり、伏見稲荷の近くの借家に逃げてしまった。

実直な親父は激怒したので周りの人はあれやこれや謝ったのだが機嫌はなおらず、とうとう町のお付き合いの方たちに礼装してもらい奉行所に訴えて勘当帳に正式に登録してもらい、勘当して子を1人捨ててしまった。

血肉を分けた親の身からしてこれほどまでに子を嫌うというのは並大抵のことではなく、せがれの新六の悪心のせいだ。

新六はどうにもならなくなって、伏見稲荷近くの借家にもいられなくなって江戸に行くことにした。道中の靴代もなく「悲しいのは自分ひとりだ」と嘆いてみてもいまさら遅い。12月28日の夜、風呂に入っていたら「親父が来たぞ!」の声にふんどしも無しの裸で逃げ出した。

翌29日に雪のちらつく中、大亀谷を過ぎて勧修寺に差し掛かると、茶屋のお湯が沸くのに心ひかれ「耐え難い寒さをしのげるのに・・」とおもいつつ、無一文なので大津や伏見から来た籠がたくさん来て混雑しているどさくさに1杯盗み飲みしてのどを潤し、ほかの人が立ち際に脱ぎ捨てた服を盗んだ。

初めて盗み心を覚えていくうちに小野という田舎に着いた。

柿の木の陰に子供たちが集まっていて「弁慶が死んじゃったよ」という声が聞こえた。様子を見ると大きな黒犬であった。これをもらい受けて先ほど盗んだ服に包んで音羽山のふもとに行き、野良畑で働いている男を読んで「これは疳の薬になる犬です。3年も薬を飲ませ続けた犬でこれから黒焼きにするところです。」と嘘をつくと、それは人のためになる事だと芝や枯笹で焼いてくれた。

その村人にもお礼に少しあげて残りを肩に担いで、田舎訛りの声で「オオカミの黒焼きはいらんかね」とおかしな声で売り歩き、逢坂の関を超えて、死罪になるのも恐れないでだれかれかまわず押し売って、かなり人馴れ、旅慣れしているずるい針屋や筆屋までも騙して、追分から大津までの間に580文ほど儲けた。

それなりの才能が出てきたが、「この知恵が京都にいるうちに出ていたら遠い江戸まで行くことななかったのに」と心の中で泣き笑いして、瀬田の長橋を渡っては行く末を案じつつ草津の宿屋で新年を迎えた。

歌枕で有名な鏡山を眺めながら草津名物の姥が餅を家にいたころの鏡餅に見立てて、「いつか花の咲く桜の木のようにやがて再び俺の人生も花を咲かせることもあるだろう。

俺もまだ色も香もある若者だから、ことわざの『稼ぎに追いつく貧乏神無し』のように、年取った足弱の貧乏神は俺には追いつけまい」と思うと汚いしめ飾りも春めいて見えてきた。

秋はさぞ月の眺めもよいだろうと自分を盛り上げながら、不破の関を通り、美濃路・尾張を超えて東海道の村々をめぐり、京都を出てから20日で着くところを62日かけて品川に着いた。

ここまで何とか飢えをしのいできたうえ、お金も2貫300文残ったので、売り残した黒焼きを海に沈めて江戸入りを急いだが、日は暮れるし行くあてもないので北品川の東海寺の紋の前で一夜を明かすことにした。

ところが、その門の片陰にはこもを被った乞食が大勢寝ていたが、春とはいえ海風がきつくて波の音もうるさくて眠れないので乞食どもが身の上話をするのを夜中まで聞いていると、よく乞食に筋なしとは言うけれども、みんな親の代からの乞食ではなさそうだった。

その中の1人は大和の竜田出身で「少しばかりの酒を製造して6、7人の家族を養っていたが、金銀100両たまってきたところで商売がまどろっこしくなって、親戚一門友人まで引き留めたのに、何もかも捨てて江戸で勝負しようとしてしまった。

何も知らないくせに江戸で呉服町の魚屋を借り、上々吉諸白を売る店と軒を並べて開店したけれども、鴻池・伊丹・池田・奈良などの根強い老舗の香りも高い酒には遠く及ばず、資本も無くしてしまって樽の藁を身にまとうようなおちぶれになってしまった。

故郷の竜田へ錦を飾って帰れなくても木綿でもあればせめて帰れるのに・・・」と男泣きして「慣れた商売はやめてはならないものだ」と気づいた時には遅すぎたのだ。

もう一人は泉州堺出身の者で、何事にも器用すぎで、芸自慢で江戸にやってきた。

書道は平野仲庵にに習い、茶は金森宗和に習い、詩文は深草の元政に学び、連歌・俳諧は西山宗因に習い、能は小畠に伝授の扇を受け、鼓は生田与右衛門に習い、朝は伊藤仁斎に学んで夕には飛鳥井に蹴鞠を習い、昼は玄斎の碁会に交わり、夜は八橋検校に琴・三味線を習い一節切は中村宗三に習い、浄瑠璃は宇治嘉太夫に学び、踊りは大和屋甚兵衛レベルまで行き、風俗遊びは島原の太夫高橋に仕込まれ、野郎遊びは鈴木平八を手玉に取り、人間のすることはすべて名人に学び「何々を極めたから立派に世の中に生きてゆける!」と自慢していたが、こんな物好きな芸は生活の役にはなんにもなるはずがない。

そろばんも出来ないし、天秤の使い方も知らいないので当たり前だった。

武家に勤めてもどのように仕事してよいか分からず、役場に勤めても役立たずとクビになり、こうした落ちぶれになって初めて「諸芸のかわりになんで生活の手立てを教えてくれなかったんだろう」と親を恨むのであった。

もう一人は親の代から江戸の金持ちで、通り町にはお屋敷を持っていて一年に600両づつ決まった家賃収入が入っていながら倹約の2文字をおろそかにしたため、収入源の家はもとより自分の家まで売ってしまい、住むところもなく、仕事の大変さにも我慢できないのでタダの乞食になってしまった。

それぞれの身の上話を聞くと新六は同じ思いで哀れ深く感じ、3人の枕元に立ち寄って「私も京都の者だが、親に勘当されて江戸にやってきたのだが、お前さんたちの話を聞いて心細くなってきたよ」と恥を隠さず話すと3人とも口をそろえて「親に謝っちゃえよ」「間に入ってくれるおばさんとかいないのかい?」「江戸へは行かないほうがいいよ」と言う。

「もう後戻りはできないよ、これからどうするかのほうが大事だ。ところでお前さんたちは頭がいいのにここまで落ちぶれているのは不思議だよ。商売につながるような案も出てくるんじゃないかい?」というと、「この広い江戸の城下で日本中の天才たちの集まるところだから競争も激しくて3文のお金も簡単には儲けさせてもらえないです。しょせんカネがカネを産むご時世だから元手がないとダメだよ」と言う。

「お前さんたちが今まで世間を見ていた中で何か新しい商売のアイデアはないかい?」と尋ねると、「そうだなあ、たくさん捨てられている貝殻を拾って霊岸島で建材用の石灰を焼くか、江戸は忙しいところだから刻み昆布や花鰹を削って量り売りするか、あるいは一反の木綿でも買って手ぬぐいを切り売りするかの簡単な商売しかないかなあ」というのを聞いてアイデアがひらめき、夜明けに3人とバイバイした。

別れ際に3人に300文のお金をあげたところ非常に喜んで「運が開けて富士山ほどの金持ちになれるのはすぐですよ」と言ってくれた。

それから新六は伝馬町の木綿問屋の知り合いを訪ねて、このたびの事情を語ると同情してくれて、「男が働いてみるところはここですよ。ひと稼ぎしてみなさい」と言うので元気が出て目星をつけておいた木綿を買い込み手拭いの切り売りを始めることにした。

工夫して天神様の縁日の3月25日を選んで手水鉢の近くで売り出したところ参拝者は「縁起がいいので」と縁起をかついで買ってくれたので一日のうちに相当の利益を得た。

それから毎日工夫を重ねて10年もたたないうちに5000両の金持ちと世間から評価されて、その土地で第一番の知恵者と言われ、町中の人々は新六の指図を受けるようになり、その地域の宝とまで言われるような存在となった。

看板に菅笠をかぶった大黒天を掲げたので世間では笠大黒屋と呼んだ。

屋敷方に出入りし、小判の買い置きをし、お屋敷に住むというのはまことにめでたいことです。




2016年6月22日水曜日

巻2(4) 天狗は家名風車

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自分の職業をとことん極め、常に考え続けるとよいアイデアが湧くお話。

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海のように知恵の広い日本人の働きぶりを見て、世渡りの事にうとい中国の詩人白楽天が途中で逃げ帰ったという話があるが、まことに滑稽なことである。

漢詩を詠うのを聞いても聞きなれない感じがするものだが、それよりはずっとおもしろい横手節という小唄を聞いてその由来を尋ねてみると、紀伊の国の大湊で太地という村の女子どもが歌いだしたものだという。

ここは繁盛しているところで、若松の林の中に鯨恵比須の宮をまつり、鳥居に鯨の胴骨が立っているが高さは10mくらいある。

見慣れない者なので呆れてこの土地のいわれを尋ねてみるとこんな話をしてくれた。

この浜に、鯨のもりを打ち込む羽刺しの名人の天狗源内という人がいて、毎年運の良い男だというので、昔はいつもこの人をやとって鯨舟を仕立てたという。

ある時沖の一群の夕立雲が出たように鯨が潮を吹いていうのを根がじぇて、一のモリを打ち込み、当てたという印の風車の旗印をかかげたので、人々はまた天狗の手柄と知った。

大勢の漁師たちは浪のように掛け声をそろえて笛・太鼓・鉦の拍子を取って鯨に大綱をつけて、ろくろで磯に引き上げたところ、その丈が33尋と2尺6寸の背美という大鯨で、前代未聞のものだった。

ことわざに、「くじら一頭捕まえれば七里がにぎわう」というとおりで、竈の煙が立ちつづき、油をしぼれば1000樽以上にもなり、その肉、その皮、ヒレまで捨てるところがなく、一躍長者になるというのはこのことである。

白い脂身を切り重ねたありさまは、山のない浦に雪の富士を築いたように珍しく、赤い肉の山はモミジの名所高雄をここに移したようであった。

いつでもクジラの骨は捨ててしまうものであるが、源内はそれを貰い受けて、これを砕かせ、そこから油をしぼってみたところが思いがけぬ利益を得て金持ちになったのだが、それが下々の者にとって大分の利益となることを、今まで誰も気がつかなかったのは愚かなことだった。

近年はさらにまた工夫して鯨網というものをこしらえ、鯨を見つけしだい全く取りそこなうことがなかったので、今ではどの浦々でもこれを使うようになった。

以前源内は粗末な浜辺の小家に住んでいたが、今では檜造りの長屋を立て、200人余りの漁師をかかえ、船だけでも80艘、何事しても調子よく、今では金銀がうなるほどたまり、いくら使っても減ることのない、土台のしっかりした金持ちになった。

これを根の深くはびこったさまにたとえて「楠木分限」というのである。

「信心あれば徳あり」ということわざのとおり、源内は仏に仕え神をまつることがおろそかでなかった。なかでも西宮の恵比須をありがたがって、毎年正月の10日の例祭には、人より早く参詣していた。

ある年、新しい大福帳の祝い酒に前後不覚になり、ようやく明け方から餅船の20挺立てを全速で漕がせていく途中、例年より遅れたのをなんとなく気がかりに思っていたところ、歳し男の福太夫という家来がもっともらしい顔つきをして言い出すには、「ここ20年来朝恵比須にお参りになされたのに、今年は日の暮れ方のお参り、これから旦那様の身代もも苦しくなって提灯ぐらいの火が降りましょう。」ととんでもないむだ口を叩いた。

そのため、いよいよ機嫌が悪くなって、脇差に手はかけたが、ここが思案のしどころと気を落ち着けて「いや、春の夜の闇を提灯なしでは歩けない」と、足を伸ばし、胸をさすって苦笑いしているうちに、早船が広田の浜に着いた。心静かに参詣したが、松原は寂しく、御灯明の光もほの暗くみな帰る人ばかりで、これから参る者は自分よりほかにない。

気のせくままに神前来て「御神楽を奉納したい」と言ったが、神主たちは車座になって賽銭を勘定して銭刺しにつないでいるところだったので、互いに譲りあったあげく、舞姫の後ろ手鼓だけ打ってそこそこに片づけ、清めの鈴も本来なら頭上で振るのに、遠いところからいただかせておしまいにしてしまった。

神のこととはいえ少々腹が立って、末社もざっと回って、また船に乗り込み袴も脱がずに横になり、いつとなく寝込んでしまったが、あとから恵比須殿が烏帽子のぬげるのもかまわずたすきがけで袖まくりして、片足を上げて岩の端から船にお移りになられた。

あらたかなお声で「やれやれ、よい事を思いついていながら忘れたわい。この福をどの漁師になりとも自分の気分次第で語り授けようと思っていたが、今の世の人はせっかちで、自分の願い事だけ言うとさっさと立ち去っていくので何を言って聞かせるひまもない。おそく参詣して、お前は幸せ者だ。」と、耳たぶに口を寄せてささやかれるには「鯛の豊漁期の3、4月ごろに限らず、生舟の鯛をどこまでも無事に送り届ける方法がある。弱った鯛の腹に針を立てるのだが、尾先から9センチほど手前をとがった竹で突くやいなや生きて動きまわるようになるという鯛の療治法、これは新しい方法だぞ」と語り給うたかと思うと、夢が覚めた。

「これは世にためしのない新案だ」と、お告げにまかせてやってみたところ、思った通り鯛を殺さずに運ぶことが出来た。

これでまた儲けて、幸せよく順風をまともに受けて船を乗り出すように繁盛した。




2016年6月21日火曜日

巻2(5) 舟人馬かた鐙屋の庭

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人選、教育、商売の心得等々のバランス感覚の良い完璧な経営は店を大きくする。

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北国の雪は毎年雪竿で測って1丈3尺以上降る。

10月の初めからは山道を埋め、人馬の通行が絶えて、翌年の2月15日のころまではおのずから精進暮しをすることになり、塩鯖売りの声さえも聞かず、茎漬けの桶を用意し、たき火を楽しみ、隣向かいの家との付き合いも無くなって、半年間は何もしないで明けても暮れても煎じ茶を飲んで日を送るのである。だが、いろいろの食物をあらかじめ蓄えておくので飢え死にするようなことはない。

こんなへんぴな漁村や山村へ馬の背に乗せるだけで荷物を取り寄せりるという事になると何もかもが高値になってしまうことだろう。

その点舟ほど便利なものはない。

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ここ酒田の町に鐙屋という大問屋が住んでいた。

昔はほそぼそと宿屋を営んでいたが、ここの主人は才覚があり、近年しだいに家が繁盛し、諸国の客を引き受けて北国一番のコメの買い入れ問屋となり、今では惣左衛門の名を知らぬものはいなくなった。

表口30間、奥行き65間の屋敷に家や蔵をぎっしり建てて、台所の様子は目ざましいものであった。

米・味噌を出し入れする役人、薪の受け入れ係、魚の買い出し係、料理人、菓子の世話役、煙草の役、茶の間の役、湯殿役、その他商いの部下、家計係の部下、金銀の支払い役、収入簿の記入役など万事1人に1役づつ受け持たせて事務を滞りなく運んでいる。

亭主は年中袴をはいて、いつも小腰をかがめ、内儀は身軽な身なりをして居間から離れず、朝から晩まで笑い顔をして、なかなか都会の問屋などとは違って、人の起源を取り、家業を大事につとめているのであった。

蓮葉女が36人もいて、下に絹物上に木綿の縦縞を着て、たいていは西陣の今織を後ろ帯に締めている。

これにも女頭があって、なにかと指図して、客に一人づつ布団の上げ下ろしのためにつけておくことにしている。

「十人寄れば十国の客」と諺にも言うように、ここの客も大阪の人もいれば、播州網干の人もいる。

山城の伏見の者、京都・大津・仙台・江戸の人々が入り混じって世間話をしているが、どの人の話を聞いても皆賢そうで、それぞれ一人前の仕事をさばけない者は一人もいない。

だが年取った部下は将来独立するために自分のためになることをするものだし、若い部下は遊びで派手に使いすぎて、とかく主人に利益を得させることがないものだ。

考えてみると遠くの国に商いにやる部下はあまり実直なのはよろしくない。というのは何事も控えめにして人の後につくので、利を得るのは難しいからだ。

また、大胆で主人に損をさせるほどの者は、一方では良い商売もして、主人が金を使い込んでしまった借金の穴埋めも早いものだ。

この問屋で数年多くの商人気質を見てきたが、初めてここに着いて馬を下りるとすぐに葛籠をあけて、都染めの定紋付に道中着を脱ぎ替え、すぐに紙をなでつけてくわえ楊枝で身なりをととのえご用を務めている部下に案内につれていくような人が幾人もいたが、1人として出世したためしは無い。それに比べて主人持ちでありながら、間もなく主人になるような人は、気のつけどころが格別違っている。

ここに着くやいなや、若い部下に近寄り、「たしかに先月の中ごろの書状の通りで、相場に変わったことはありませんか?」「空模様はところどころで変わるものだから、日よりも定めにくいが、あの山の雲の立ち方は200日目を待たずに風が吹くとはご覧になりませんか?」「今年の紅の花の出来栄えは?」「青その相場は?」と必要なことばかり尋ねる干鮭のように抜け目のない男は、まもなく上方の旦那様より金持ちとなられたものだ。

いずれにしても物事には、やり方のあるものだ。

この鐙屋も武蔵野のように商売を手広くして、締まりのないところがあったので、世間でもいうように一見長者風で、あぶなっかしく見えながら、その実びくともしないのは、鐙屋には鐙屋のやり方があったからである。

一般に問屋の内情が不安定なのは定まった口銭を取るだけなのを物足りなく感じ、客の商品で勝手な商いをして、たいていは失敗し、客にも損を掛けるようなことをするからである。

問屋の本業だけに一筋に専念して、客の売物・買物を大事にとりしきっていれば、何の気遣いもないものなのだ。

およそ問屋の暮らし向きは、外からの見立てと違い、思いのほか何かにつけて費用がかさむものなのである。

だからそれを無理に引き締めて、あまり地味に経営しすぎると必ず衰微して、遠からず潰れるものなのだ。

一年中の収支は、元日の朝八時前になるまでは分からず、普段は収支勘定の出来ない商売なのだ。

そこで鐙屋は儲けのあった時には来年中の台所用品を、前年の12月に買い込んでおき、その後は一年中に入ってくる金銀を長持ちに落とし穴をあけておいて、これに打ち込み、12月11日に定まって決算をするのであった。

鐙屋こそは確かな買い問屋であり、銀を預けても夜安心して寝られる宿である。




2016年6月19日日曜日

巻3(2) 国に移して風呂釜の大臣

国中の医者が見放し、すでに末期の水を与える時が来て、今は生死の境だと蛤で水を口に入れたがそれさえ喉に通らず、身内の人たちみんなで病人の手足を握り、「これこれ西の極楽へどこへも寄らずにまっそぐ行くことをお忘れなく、おやじ様」と勧めると、親父は半ば眼を見開いて「わしは63年生きた。寿命から言って不足ない。

貸し借りは残さずこの世の帳面の私の名は全部消して、閻魔の帳面に付け替えることを腹に決めている。この世に思い残すことは何もない。

おまえたちはただただ世渡りの種を忘れるなよ」と言い残して往生してしまった。

一同は嘆くことをやめて葬儀を執り行った。

「死んでしまえば何もいらないものだ。経帷子1枚と銭6文を四十九日の長旅の旅費にするのでは、地獄の駄賃馬にお乗りお乗りになることも出来ないだろう」とみんな冥途の道中を思いやった。

その後、息子は家の家督を相続して、昔のように豊後の府内に住んで、万屋三弥といって世に知られていた。

この人は万事につけて世間の掟を守り、3年の間は喪に服して、軒端の破損もそのままで直さず、心の底に愁いをふくませて命日を弔い、父の冥福のために施しや寄進をし、1人の母に孝行を尽くしたので、何事お願いがかなって幸せであった。

「おやじは遺言で世渡りの種を大事にせよと言い残されたが、菜種は油をしぼる草だから、この種の事だろう。」といちずに思い込み、いつかはその菜種の買い占めをするか、またはこの野で菜種を作らせて金持ちになろうと、明けても暮れても工夫をめぐらした。

ある時、人里から離れた広野でむかしから薄原となっているところを通りかかったが、こんなところを狼の寝床にしておくのも国土の無駄遣いと思いついて、ひそかに菜種を撒き散らして試したところ、その季節に花が咲き実がなったので、自然にまかせておいてもこうなのだからと、新田に払い下げてもらい、十年間は年貢もいらないという条件でここを開拓することになった。

ところどころに人家を建てて集落を作り、鋤・鍬を持たせて耕作させたところ、毎年利益を得て、人の気づかない金銀がたまったので、それを上方へ船をまわして商いをはじめ、多くの部下に売りさばかせて、しだいに九州一の長者になって何不自由ない身分となった。

その後、母親を連れて京都の春景色を見物に出かけた。

どこの国も桜の色香に変わりないが、花を見る人の風情には違いがある。

まことにおもしろい女の都である。

山にも川にも散ることのない美人が歩いているのを見て、「悲しいことだ、何の因果で俺は田舎に生まれたのであろうか」と自分の故郷のこと思すっかり忘れて毎日女遊びに心を乱していた。

滞在期間も終わり家に帰る時が来たときに、妾を12人召し抱えて豊後に帰り、屋敷を京都風に新築して、金箔・宝蔵・広間・大書院・庭には西湖の岩の配置にし、玉の蒔き石、銀骨の瑠璃等を輝かせるなど荘厳な家の造りにした、自分はその真ん中に座り、女に扇で煽がせて風の強いほうを近くに寄せたりした。

昔豊後にいた真野の長者もこのおごり高ぶりも及ばないであろう。

家の内情は人が知ることはないが、これでは天罰も下るはずだ。

一家の者はこのおごり高ぶりをくやんだが、一向にやめる気配もない。

そこで古株の部下が元帳をしめくくって、銭蔵と銀蔵の鍵は主人に渡して自由にまかせたが、3間と5間の小判蔵一つだけは主人の自由にさせない間はこの家の傾くことはなかった。

しかし、世は無情なことで、その部下が58歳の冬にちょっと風邪をひいただけで亡くなってしまった。

それからは主人が金蔵の鍵を受け取って思うのままに奢りを極め、九州の水の硬水が気に入らないと京都の清水寺の水を幾樽も船路を運ばせて取り寄せて、風呂を焚かせた。

このため、風呂釜大臣と噂された。

これではそのうち煙も絶えて破産になるだろうと見守っていると、案の定ある年の暮れに総勘定をしたところ、5000貫目の勘定に銀1匁3分だけ、元銀に不足が生じ、それからは次第に大きな穴が開き始め、1000キロの堤防もありの穴から崩れるのたとえ通り、その身の不運が重なって、ついには命までも失い、あとに残ったものはみな他人の宝になってしまった。




2016年6月15日水曜日

巻4(1) 折る印の神の折敷

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人と違うことを考えること、研究を尽して人のやっていないことを実現することが大切というお話

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「掛けたてまつる御宝前」と書いた大絵馬が、京都東山清水寺の御神前に掛かっているが、これは呉服所の何某が銀100貫目の身代を祈り、その願が成就したのでその名を記して掛けられたのだということだ。

今その家の繁盛を以前と見比べ、一代のうちに金銀もたまればたまるものだと、室町の呉服屋仲間ではもっぱらの評判である。

人は皆欲で固まった世の中だから、若恵比寿・大黒殿・毘沙門天・弁財天などの福の神に頼みをかけ、鰐口の緒に取りすがって元手を得たいものと願うのであるが、今は世知がらい時代になったので、そんな願いは叶いがたい。

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ここに桔梗屋という貧しい染物屋の夫婦が住んでいたが、商売を大事にし正直一途に工夫をこらし、少しも暇を無駄にしないで稼いでいたが、毎年餅つきが遅くなり肴掛けにブリもなくて正月を迎えることをくやしく思っていた。

人並に吉夢をねがって宝船を敷いて寝たり、節分の豆も本来「福は内」とずいぶん蒔くのだが、その甲斐もないのであまりの貧しさから考えが変わって「世間では皆福の神を祀るのがならわしだが、自分は一つ人の嫌っている貧乏神を祀ってやろう」と、おかしげな藁人形をこしらえて、柿渋染めの帷子を着せ、頭には紙子頭巾をかぶらせ、手には破れ団扇を持たせて、その見苦しい姿を松飾りの中に安置して、元日から七草の日まで、精一杯もてなした。

この貧乏神はうれしさのあまり、七草の夜に亭主の枕ものとにゆるぎ出て、「わしはこれまでの長い年月、貧家をめぐる役目で身を隠したまま様々な悲しいことの多い家の借り銭の中に埋もれて、いたずらをする子供を叱るにも「貧乏神め」とあてこすりをいわれたものだ。

かといって金持ちの家に行くと、いつも丁銀を量る音が耳にひびいて癪の虫がおきるし、また朝晩の鴨なますや杉焼きの贅沢料理が胸につかえて迷惑する。

わしはもととも、その家の内儀についてまわる神だから、奥の寝間にも入るのだが、重ね布団に釣夜着それにパンヤの括り枕などがこそばゆくなるし、白無垢の寝巻にたきこめた薫りにも鼻をふさぎ、花見や芝居見物でビロード窓の乗物に揺られて、めまいが起きそうになるのもいやだ。

また夜はろうそくの光が金ふすまに映りまぶしくてかなわない。それよりは貧乏な家の灯火の十年も張り替えない行燈の薄暗い光のほうがずっとよい。夜中に油を切らして女房の髪の油を間に合わせにさすなどといった不自由を見るのが好きで毎年暮らしてきた。

誰一人祀ってくれる人もなくほったらかしにされてきたので、かえって意地を張ることになって、いよいよそんな家を衰微させていた。

ところがこの正月にお前が心にかけてこの貧乏神を祀ってくれ、こうしてお膳の前に座って物を食うのは今までにこれがはじめてのことだ。この恩を忘れるわけにいかないぞ。この家に伝わっている貧乏な運命を、2代目長者の奢り者のほうに譲って、たちまちのうちにお前のところを繁盛させてやろう。

いったい暮らしの立て方にはいろいろあるが、柳は緑、花は紅だ。」と2度、3度、4度、5度くり返したが、それはあらたかな夢のお告げであった。桔梗屋は目が覚めてもこれを忘れず、ありがたく思いこんで「自分は染物細工を商売にしているのだから「紅」と言うお告げはまさしく紅染めのことであろう。けれどもこれは小紅屋という人がたくさん仕込みをしていて、世間の需要を満たしている。そればかりか近年はやはり紅色の「砂糖染め」を工夫した者もあり、深い知恵のある人が多い京の事だから、並々の事で儲けるなどとは思いもよらない。」と明け暮れ工夫を凝らしていた。

あるとき、まめ科の蘇芳で下染めをして、その上を酢で蒸しかえすと、本紅の色と全く変わらないものになることを発明した。

これを人知れずに染め込み、自分で荷物をかついで江戸に下り、本町の呉服店に売って、京への上りの商いには奥州筋の絹と真綿を仕込み、さす手引く手に油断のない、ノコギリ商いをして、十年経たないうちに1000貫目以上の金持ちになった。

この人は大勢の手代を置いて万事をさばかせ、自分は楽しむことに徹して、若い自分の苦労を取り返した。これこそほんとうの人間の身の持ち方である。

例え万貫目の銀を持っているからといって、老後までもその身を働かせ、気をつかって世を渡る人は、人の一生は夢の世のようにはかない事を悟らない人だから、いくら金を貯めても何の益もない。

さて家業のことをいえば、武士の中でも大名はそれぞれきまった世襲の領地があるから別に出世の願いはないわけだ。

けれども一般の侍(公務員)は親ゆずりの武士に支給された土地である知行、いわば位牌知行を取ってそのまま楽々と一生を送るというのは、武士としての本意ではない。自分の力で奉公を勤めて、官職や俸禄を進めてこそ出世というものである。

町人も親に儲けてためさせ、遺言状1枚で家督を相続し、顧客の信用を確保してきた親代々の商売を守り、そうでなければ家賃や貸銀の利息を勘定するだけで、あたらこの世をうかうかと送り、20歳前後から無用の竹杖をついき、置き頭巾をかぶって長柄の傘をさしかけさせて歩いたりして、世間の批判もかまわず分不相応な贅沢をする男を見かけるが、いくら自分の金を使ってするにしても、天命知らずというものである。

人は13歳までは分別のない子供だからいいとして、それから24、5歳までは親の指図を受けて働き、その後は自分の力で稼ぎ、45歳までに一生困らぬだけの基礎を固めておいて、そのあとは遊楽することが最高の理想である。

それなのになんということだ。若隠居などと称して男盛りの勤めをやめて大勢の奉公人に暇を出し、他の主人に仕えさせ、将来の出世を頼みにしていた甲斐もなくつらい目に合わせる奴がいるのだ。

町人の出世というのは、奉公人を立派にしたてて女房を持たせ、その家ののれんを大勢に分けてやることであり、これこそ主人たるものの道である。いったい3人暮らしまでは「所帯を張った身過ぎ」とは言わないものである。

5人暮らしから初めて「世渡り」というのだ。奉公人を一人も使わぬうちは「所帯持ち」とも言えない。

旦那と呼ぶ者もなく、朝晩の食事も給仕盆なしに手から手に受け取って女房に飯をもらせて食うなどは、いくら腹がふくれるのは同じだからといっても、口惜しいことだ。

このように同じ「世渡り」といっても格別の違いがあるものだ。これを思ったら暫時も油断してはならない。金銀は天下のまわり持ちでえあり、懸命に稼げば溜まらないものでもない。

この桔梗屋夫婦は、自分たちだけで働き出し、今では一家75人を指図する身となり、大屋敷を願いの通り構えて、7つの内蔵、9つの座敷があり、庭には万木千草のほかに、銀のなる銘木がはびこっており、住んでいる所はしかも長者町であった。




2016年6月14日火曜日

巻4(2) 心を畳込む古筆屏風

季節通りの風が吹き、船をあやつるの船長は海路に熟知していて、西の国に発生したでかい笠雲も3日前から予想し、ちかごろの航海も全く安全になってきたという。

世の中に舟というものがあるからこそ、1日に100里を、10日に1000里の距離の万物の大量輸送が可能となるのだ。

そのために大商人の心は渡海の船にたとえられるのであり、我が家の前の細い溝川を一足飛びに越えて、宝の島へ渡ってこそ、打ち出の小槌で打ち出したお金を量る天秤の音がはじめて聞こえるのである。

一生いわば狭い秤の皿の中を駆け回るだけで、広い世間を知らない人はかわいそうなことだ。

日本国はさておき、中国人相手の投資は大胆でなければできないことで、先行きの見込みが立たないことではあるが、中国人は実直で、口約束にたがうようなことはしないし、絹織物の巻物の巻口と奥口で品質を変えるようなことをせず、薬種にまやかし物を入れることは無く、木は木、銀は銀という具合にきちんとして、何年取引しても品質が変わることは無い。

なんといってもずるくて欲の深いのは日本の承認で、しだいに針を短くし、織布の幅を縮め、傘にも油をひかず、なんでも値段の安いのを第一にとして、売り渡してしまうとあとはどうなろうとかまわないのである。

自分さえ濡れなければ、大雨の中を親でもはだしで歩かせるというふうに、肉親でも利益にならないものは相手にしない。

昔対馬行きの煙草といって小さい箱入りにしたものが大変売れたことがあった。

大阪でその職人にきざませたところ、当分は分からぬことだというので、下積みになる品は手を抜き、しかも重さを重くするために水に浸して渡したところ、輸送中にそれが固まってしまい、タバコの煙も出なくなってしまった。

中国人はこれを深く恨み、その翌年にはなおまた前年の10倍も注文してきたので、欲に目のくらんだ連中が、われ先にと急いで送ったところ、中国の商人たちは、そのたくさんの荷を港に積ませておいて、「去年の煙草は水に濡れていて思わしくなかった。なんなら今年は湯か塩につけてみなさい」と言って、すべてを突き返したので、そのまま腐って磯の土となってしまった。

これを思うに人をだます仕事というものは、あとの続かないものなのだ。

正直であれば神も頭に宿り、潔白であれば仏もその心を照らしてくださるのである。

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とかく運は天にまかせるものと、長崎商いしていた人に筑前の博多に住む金屋というものがいたが、会場での不運が続き、1年に3度まで大嵐にあって貨物を失い、年来の資本金をすっかりそれに打ち込んでしまって、残るものとて家蔵のみとなってしまった。

軒端に吹く松風の音も淋しく、召使の者にもひまを出し、妻子もその日暮らしの哀れな身の上となったが、こうなっては急に取りつくべき頼りもなく、波の音を聞くのさえ恐ろしくなり、孫子の代まで船には乗せまいと、船の霊の住吉大明神まに心で誓いを立てるのであった。

ある夕暮れ縁側にすわって涼風をもとめ、四方の景色を眺めていると、雲が峰のうように立ち重なって、竜でも昇天しそうな風情となった。

「この空模様のように定めのないのは人の身代だ。我が家もこのように貧しくなると、庭の茂みの落葉に埋もれ、いつとなく荒れ果てて、いろいろな夏虫が野山同然に鳴きしきっているが、その声はまことに身にしみる。」と感慨にふけっていたが、ふと見ると塀越しに高く茂った大竹から杉の梢に雲が糸を張ろうとしているの目が留まった。

やっと張った糸をわたってゆくと嵐に吹き切られ、途中からその身が落ちて命もあぶなそうだったが、またもや糸を掛けて伝い、それも切られるとまた糸を掛け、3度までもつらい目にあったのに、ついに4度目に渡り切って、間もなく蜘蛛の巣を作り、飛ぶ蚊の網にかかるのを食物として、なおも糸を繰り出して巣を作るのを見て、「あんな虫でさえ気長に巣をかけて楽しむのだから、まして人間たるものが気短にものごとを投げ出してはいけないのだ。」と思い至り、家屋敷を売り払い、時期を見計らって少しばかりの荷物を仕入れた。

以前と変わって部下も使わず、1人長崎に下って、舶来品の集まる宝の市ともいうべき市場に立ちまじわり、唐織・薬種・鮫皮その他の諸道具を見たが、買って置けば値上がりして儲かることを知っていながら、元手となる金銀に余裕がないので、京都や大阪の者にみすみすぼろ儲けをさせてしまい、知恵・才覚にかけては、あっぱれ人には負けないのだが、なんと言っても皮袋にかき集めた50両をすべてはたいても、ここの商人の仲間入りは出来ないのであった。

思うようにならない商売のやりくりをやめて、やけくそになって、丸山の遊郭に出かけ、以前商売が繁盛していた時の格好をして、「太夫を上げて今宵一夜を遊び納めにしよう。」を思い、以前のつてを求めて、花鳥という太夫にあったところ、太夫とは初めから浅からぬ思いでエッチして、ことに今宵はいつも以上にしんみりした気分であったが、ふと枕屏風に目をやると、それは両面とも総金箔の立派なもので、古筆切れや短冊が隙間もないほど貼ってあったが、どれ一つとしてつまらないものはなかった。

なかでも藤原定家の小倉色紙は名物記に入っていないものが6枚あり、見れば見るほど古い時代の紙で、真筆に間違いなかった。

「どんな人がこの太夫に贈ったのであろうか」と思うにつけても、欲心がおこって、廓の遊興のほうはそっちのけになってしまった。

それからは明け暮れ子の太夫のところへ通い慣れて、上手に取り入ったところ、いつとなく太夫のほうも心を寄せてきて、自分の黒髪も惜しげなく切ってまごころを示してくれるほどの仲になったので、例の枕屏風を所望したところ、わけもなく承知してくれた。

そこで取るものも取りあえず、いとまごいもしないで上方に上って縁故を求めて屏風を大名方へ差し上げて、かなりの金子を頂戴して、また昔に変わらぬ大商人となり、奉公人をたくさん召し使う身分となった。

その後長崎に行って花鳥太夫を身請けし、女の思う男が豊前の漁村にいるというので、そこへ金銀諸道具何一つ不足なくととのえて、縁づけてやった。

花鳥は限りもなく喜び、「このご恩は忘れませぬ」と言った。

「一度は遊女をだましたとはいえ、これは憎めないやり方である。鑑定の目利き、商売の目利きともぬかりのない男だ」と、世間ではみなこれをほめるのであった。




2016年6月13日月曜日

巻4(3) 仕合せの種を蒔銭

人は正直を本とするのもので、これが神国日本、なかでも伊勢の国のならわしである。

その伊勢神宮の社は簡素な社殿だが、軽々しくもその百二十末社は紙表具の御神体で、考えてみればあさはかなことであるが、何の偽りもない紙の御心は、神鏡に照らしてみても明らかであるから、人もそれを疑うことなく殊勝にありがたく思って、この日本に住む者はここに参宮するのである。

ところで、いつの頃からかここでは小利口そうに宮巡りの播き銭に鳩の目というあやしげな鉛銭をつくり、100文といっても実は60文つないで売っている。さてもせちがらい今の世の人ごころだと豊かな福の神もこれをお笑いになさることだろう。

ここの繁盛ぶりはいまさら言うまでもないことだ。大々神楽の奉納金は宝の山のように積もり、諸願成就の祈祷料は一日に12貫目の定まりだが、このお賽銭は絶えるまがない。土産物屋の笙の笛や貝杓子を細工して世を渡る人や、海のわかめを売る人など、浜の真砂の数ほどもいる。

その他下級の神官で、お抱えの書記のいない人は諸国の檀那回りをする時に配るお定まり祝儀状を、一通につき銭一文の賃書きで出すのだが、これを年中書いて妻子を養っている者が何百人あるかわからぬほどだ。

とにかくここは世渡りの業のさまざまある所である。それに人の気心を察して商い上手にやるのはこの国の特色である。間の山のお杉・お宝という乞食までも気長に参詣者の機嫌をとって、飢えもせず寒い思いもせず、実には絹物を着飾り、連れ弾きの三味線にのせて「あさましや心ひとつ」という一節を唄っているが、いつ聞いてもその調子は変わらず、この内宮と外宮の一里の間でよい慰みになっている。

ところで、世の中に銭ほど面白いものはない。大勢の伊勢講参りの人はいるが、ついぞこの乞食が満足するほど、その銭をやった人はいなかった。

思えばわずかの銭で済む事であるから喜ばせてやりたいものである。「島原の正月買いをするときは、祝儀に配る庭銭ははずむのだが、京の人はひどくけちだ」と、神宮正殿に敷く白い玉砂利を売るおやじも言っていた。

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ある時、江戸の町人が参宮にやってきたが、道中の乗掛馬もさほど飾らず、駕籠布団も寄進のための目立たぬ紫色を用い、供を2,3人つれて、御師のつけた案内者にまかせて伊勢山田を出る時、新鋳の寛永通宝を200貫文用意して駄馬に積み、間の山50町の間それをまき散らしたので、大道は土も見えなくなる有様で、野も山もみな銭掛け松かと思われるほどであった。

乞食芸人たちが先を争ってこれを拾うと、松原踊りをする乞食たちの袖にあふれ、銭を受け取る味噌漉しのざるからこぼれるほどで、しばらくは小唄も撥音も鳴りをひそめてしまい、「いったいこの人はどういう長者なのだろう」と、その名を尋ねたところ、江戸は堺町のほとりに住む分銅屋の何某という、人にはあまり知られていない金持ちであった。

世間には金もないくせに見せかけだけで商売をするから大名のような商人が多い。ところがこの人は表向きを軽く見せてもその資産内容のしっかりしていることは、暗がりに鬼をつなぐというたとえのように、薄気味がわるいほどの力があった。

年越ごとに仕合せが重なって、21歳から55歳までの38年間に自分の手で稼ぎ出し、金7000両を一人息子に譲り渡した。

そもそもこの人の商いのはじめは、江戸堺町都伝内の芝居小屋の近所に、9尺間口の店を借りて、小規模行替えを行う銭見世を出し、諸見物人たちの木戸札を買う小銭の両替をしていたのであったが、銀2匁か3匁の両替のうちに、5厘1分ずつごまかして天秤の量目を少なく量ったので、少しのこととはいえ積もれば大分の利益となり、しだいに栄えて両替屋となった。

これこそ楠木分限であり、根のゆるぐことのない身代である。

その隣に、大変利発な男が住んでいて、カラスを鷺とごまかすような見世物をこしらえて渡世していた。

ある年は閻魔鳥といういかさまな作り物を仕立てて珍しがられ、一日に銭50貫文ずつも稼ぎ、またある年は、形の奇妙な生き物を「ベラボウ」と名付けて見世物にしたが、これも毎日木戸銭が山と積もった。

そこですぐにでも家蔵を求めたかというとそうではなく、今でもやはり奥山や入海に気を配って、「万一浅黄色の猿でもいればよいが、ひょっとしたら手足の生えた鯛がいるかもしれぬ」と捜しまわっているが、もとより水の泡のような世渡りであるから、消えるのも早いのである。

およそ少年俳優たちの給金はその場限りの徒花のようなもので、身につかないものだ。

玉川千之丞が女形をして、業平河内通いの狂言一番を一日小判一両の給金に定め、一年に360両ずつ取ったのであったが、伊勢の国へ引っ込んで死ぬ時には、昔の舞台衣装すら残っていないほどであった。

ただその時々の栄花と楽しんだだけなのだ。

金銀を貯めて商人になろうという心掛けはなかったのである。

だからなんといっても人はそれぞれ本業をよくわきまえることが大切である。

さる明暦3年酉の年の江戸の大火で諸道具までも焼けてしまい、皆々丸裸になったが、それもほどなく以前のように復興した。

酒屋は杉の葉を束ねた看板を元どおり門にかけ、本町の呉服店はそれぞれに店に綿を飾り、伝馬町の絹屋や綿屋も昔と同じ店つきで、大伝馬町の佐久間の屋敷の表通りは相変わらず各種の紙屋が軒をならべ、舟町の魚市、米河岸の米の売り買い、尼棚の塗り物問屋など、通り町の繁盛はこの御時世なればこそである。

今や風もなく雲も静かで照降町には下駄や雪駄の細工人が住み、白銀町には銀細工の槌の音がして、昔見た人々がそのままその家職を続けている。

以前日雇い人足だった者はそのままの姿であり、山伏は同じ顔で、腫物切り傷の膏薬売りは今も同じ売り声であり、ひとりも商売を替えたものは見えない。

貧乏人は相変わらず貧乏で、金持ちはやはり金持ちになっている。

これほど不思議なことはないと、かの分銅屋が方々を見まわって語ったのであった。

「広い町筋にたった一人、その火事の時分に銀でも拾ったのであろうか、手慣れた数珠屋をやめて中橋に刀・脇差の店を出し、いったんは繁盛したようであったが、間もなく剣も菜刀のように錆ついて、また元の数珠屋に戻って、それを後生大事に営んで露命をつないでいる。

人はやりつけた商売を一筋に励んだほうがよい」と分銅屋は話をしめくくった。




2016年6月12日日曜日

巻4(4) 茶の十徳も一度に皆

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誠意とバランスは大切。度を過ぎたケチは身を滅ぼすお話

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越前の国敦賀(福井県)の港は毎日の入舟が多く、一日の平均の入港税が大判金一枚にものぼるということである。

これは淀の川舟の運上金とかわらない額である。

ここは各種の問屋の繁盛している所である。ことに秋になると、気比神社の市の仮小屋が立ち続き、まるで目の前に京の町を見るような賑やかさで、男の中に立ちまじわる女の身なり・衣装もととのっていて、その気風は北国の都といわれるうだけのことはある。

旅芝居もここを目当てにし、巾着切りも集まってくるのだが、今どきの人は賢く用心して印籠ははじめから下げず、紙入れも内懐に入れるので、スリも手が届かない。

こういう混雑の中でも銭一文とてタダでは取ることは出来ないので、盗人仲間も暮らしにくくなったものだ。

それにつけても、ともかく正直に頭を下げて、その場その場の客でも丁重に旦那扱いにして、諸国の買出し商人を招く商いの上手の者は世渡りに困ることはない。

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この町はずれに、小橋の利助といって、妻子を持たず、我が身ひとつをその日暮らしにしてる利口な男が住んでいた。

荷い茶屋を小奇麗にこしらえ、その身はたすきをかけて、括り袴もかいがいしく、烏帽子をおかしげにかぶって、ひょうきんなえびす様の格好をして、人より早く朝市の立つ町に出て、「えびすの朝茶」と触れ歩くと、商人は移り気なもので、縁起をかついで咽喉の渇かぬ人までもこの茶を飲み、たいてい12文ずつ投げ入れてくれたので、日毎に儲かり、ほどなく元手となる資金をこしらえて葉茶店を手広くはじめ、その後は大勢の手代をかかえた大問屋となった。

これまでは自分の働きで金持ちになったので、世間からはほめそやされ、一流の町屋から婿にも望まれたが、「一万両の身代にならぬうちは女房を持つまい。40まで延ばしても遅くはない」と、家庭を持った場合に掛かる費用を計算して独身を通し、ただ銀のたまるのを慰みに淋しく年月を送っていた。

そののち、みちにはずれた悪心がおこり、越中・越後に手代どもをつかわして、捨てられてしまう茶の煮殻を買い集め、それを京都の染物に用いるのだと称していたが、実はこれを飲み茶の中に混ぜて人知れず売り出したので、いったんは大変な利益を得て大儲けした。

しかし、天がこれを咎め給うたのであろうか、この利助はにわかに狂人となって、自分から我が身の悪行を国中に触れまわり、「茶殻茶殻」としゃべり散らしたので、「さてはあの身代を築くようになったのも、いやしい心からだったのか」と、人のつきあいも絶え、医者を呼んでも来るものがなく、自然と体も弱っていって、湯水も咽喉を通らなくなり、すでに末期が近づいたときに「今生の思い晴らしに茶を一口飲みたい」と言って、涙をこぼした。

お茶を目の前に見せても、因果なことには喉が詰まって通らず、いよいよ息も絶えようとした時、内蔵の金銀を取り出させて、足元や枕元に並べさせ、「俺が死んだらこの金銀は誰の物になるのだろう。思えば惜しい、悲しい」と、それにしがみつき、噛みつき、流す涙には真っ赤な血が混じり、顔つきはさながら角のない青鬼のようであった。

幽霊のような姿で家の中を飛びまわり、気絶したところを押さえつけると、また蘇って、銀をたずねることが34、5度にも及んだ。後には奉公人たちも愛想が尽きて恐ろしくなり、病人の部屋を見舞う者もなくなってしまったが、どうにかやっと台所に大勢あつまり、護身用の棒や、ちぎり木を手に手に持って見横えながら、2、3日も物音がしないようになってから、大勢で立ち重なってのぞいて見ると、金銀にかじりつき、目を見開いて死んでいたので、人々は皆魂も消し飛んでしまった。

そのまま死骸を籠に押し込んで、火葬場へ送っていくと、折のからの春ののどかな日であったのに、にわかに黒雲が巻き起こり、車軸のような大雨は平地に川を流し、風は枯木の枝を吹き折り、雷火がひらめき落ちて、利助の死骸を火葬にする前に奪っていったのであろうか、空の乗物だけ残っていた。

人々はまのあたりにこの火宅の苦しみを見て逃げ帰り、みんな仏の教えに帰依する心を起こしたのであった。

その後、利助の跡取りに遠い親類を招いて遺産を渡そうとしたが、こうした有様を聞き伝えて身を震わし、箸一本さえ取る者がない。

奉公人たちに「分配して取れ」と言っても、「すこしも欲しくない」と言って、この家で仕着せにも立った衣類までも置いて行って出ていく始末であり、こうなると物欲の塊のような人間もたわいのないものであった。

仕方がないので、全て売り払い、その代金を残らず菩提寺に納めたところが、住職は思いのほか仕合せというばかりに、これを仏事には使わず、京都に上って野郎遊びに打ち込んだり、あるいは東山の色茶屋を喜ばせたりしたのであった。

また利助のほうは死んだ後でも、ほうぼうの問屋をまわり、年々たまった売掛金の残りを取って歩いたというが、なんとも不思議なことである。

問屋でも利助が死んだとは承知していながら、生前の姿でやって来るので恐れをなして、銀貨の目方を軽めにしてごまかすことなく、いちいち量って支払うのであった。

このことが評判になって、利助の住んでいた家を化け物屋敷だと言い出し、タダでも貰う人がなく、崩れ放題に荒れ果ててしまった。

これらの事を見るにつけ、たとえ利益があるにしても、はじめっから計画的に流すつもりの抵当で金銀を借りたり、さまざまな偽物をつかませたり、詐欺師とグルになって持参金付きのにょぼうを貰ったり、寺々の祠堂銀を借り集めておいて破産したとしてすましたり、ばくち打ちの仲間入りをしたり、山師家業をしたり、偽物の朝鮮人参の押し売りをしたり、つつもたせをしたり、犬殺しをしたり、乳呑に子を貰って餓死させたり、溺死人の髪の毛を抜いて売ったりするなど、いかに生活のためだからといって、こんな人の道に外れた仕事をするというのは、たまたま人間に生まれても、いきてゆく甲斐はない。

何事もその身に染まってしまうとどんな悪事でも自分ではそれと分からなくなってしまうものだ。

そうなっては大変残念なことだから、世間並みの世渡りをするのが人間というのものである。

考えてみると、夢のようにはかない50年そこそこの人生なので、どんな商売をしたからといって、暮らしのできないはずはないのだ。




2016年6月11日土曜日

巻4(5) 伊勢海老の高買

生きているものは何とかして食べていけるものだ。

世に住んでいる以上何事も心配し過ぎるのは損なことだ。

毎年世間の不景気によって生活が苦しくなり、誰もかれも困っているとはいうものの、それぞれ相応に正月の用意をし、餅をつかない家もなく、数の子を買わない人もいないのである。

台所の肴掛けに端午ブリやキジを掛けならべ、薪の置き場には巻を積み重ね、土間には米俵を積んで3月ごろまでの食いぶち用意をしておき、支払いは12月20日までに済まし、その後は賃金を取り立てるほうばかりに用意しておくといった手回しのよさを見ると、悪く言っている割には家計の内情がよいことが分かる。

また、帳簿上の収支決算は合っていながら、手元に現金がなく売掛代金を取り集めて、それで掛け買いの支払いをすますほど気ぜわしいものはない。

使用人に与える雪駄(せった:防水草履)もタビも大晦日の夜中過ぎになってから買い調えるのは浮世の義理にさし詰まってやむを得ずすることなのである。

年季奉公の下女や丁稚の仕着せに間に合わせの木綿縞の綿入れに白裏をつけて与えるような主人は、それが苦しい年越しをした証拠であったことが正月になって判るのである。

 いったい始末・倹約というものは、正月の支度がまず大事になるのである。

まだ我慢の出来る道具を新調するとか、家普請をするとか、畳の表替えや、かまどの上塗など、万事さっぱりするように気を配ると、ひとつひとつの費用は目立たないが、それが積もればその出費がひびいて一年中では大きな損失になる。

賢い人は、たいていのことは春や夏の日の永い時にするもので、その方が得なのだ。


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ある年の暮れに伊勢海老と橙が品切れになって江戸の瀬戸物町・須田町・麹町などを探しまわってみたが、諸大名の御祝儀用だという事で海老一匹を小判5両、橙一つを3両ずつに売っていた。

その年は上方でも品が乏しく、大阪などでも伊勢海老が銀2匁5分、橙が7、8分ずつもしたが、正月の祝い物だというので無理にも買い調えて蓬莱を飾った。

それにしても江戸に続いて大阪は町人の気持ちが大胆で後の事などあれこれ考えずにやるところである。

ここに摂津と和泉の国境にある堺の大小路のあたりに、樋之口屋という人がいたが、世渡りに油断なく、一生無駄使いをしたことがなかった。

だから「蓬莱を飾るのは神代このかたのならわしだからとはいえ、高価なものを買い調えて飾ったところで何の益もない。天照大神もおとがめにはなるまい」と、伊勢海老の代わりに車海老、橙の代わりに九年母を積んで、その色合いが同じで初春の気分に変わりはないので、「こいつは知恵者の新工夫だ」と感心して、その年は堺中こぞって伊勢海老・橙を一つも買わずにすました。

この町は人の身持ちが落ち着いていて、夢うつつにも算盤を忘れず、家計もつつましやかにして、見かけは綺麗にかまえて物事に義理堅く、またずいぶん品のよいところである。

けれども気苦労が多くて老け込みやすいところで、他の土地から行ってはちょっと住み着きにくい。

元日から大晦日までの予算を一度に立てて割り当て、その他は一文も無駄に使わず、いろいろな品物も年々こしらえるいうように、堅実な暮らし向きである。

男は紬縞(つむぎじま)の羽織一枚を34、5年も洗濯せずに着て、平骨の扇は幾夏も使っている。
女はまた嫁入りのときの着物をそのまま娘に譲り、孫子のにまで伝えて、折り目も崩さずに保存している。こ

ことわずか3里をへだてた大阪は、この堺とは別格の違いで、今日を満足に暮らせれば明日はどうなろうと構わず、その時々の栄花と思いきわめ、享楽的な人ごころである。

女はいっそう気が大きく、盆・正月・衣替えのほか、臨時に衣装を新調して惜しげもなく着古してしまい、それもほどなく針箱の中に入れる継ぎ切れとなって廃たってしまうものである。

堺は始末な生活で立ち、大阪はぱっと派手に世を送っているが、所によっての風俗が変わっているのもおもしろい。

それにしても身代のよい人はどこの国でも気楽に暮らせるものだ。どんなに利口そうな顔をしても暮らし向きの不如意な人の言うことは聞く者がない。

愚か者でも金持ちのする事は、正しいこととされるのであるから、頭のよい人が暮らしに困っているというのは口惜しいことだ。

「若い時に苦心して、精出して働き、老後の楽しみを早く知るがよい」とは、嘘をつかない大黒様のお告げである。

しかし、今ほどうまい儲けをさせないときは無い。金銀は昔よりも増えてしだいに多くなっているのに、誰がどこへしまって置いて見せないのであろうか、合点のいかぬことだ。これほど人の出ししぶる金銀をつまらぬ事にすこしでも使ってはならない。金のたまるのはもどかしいものだが、減るのは早いものだ。

ある時夜が更けて、樋之口屋の門を叩いて、酢を買いに来た人があった。その音は中戸を隔てて奥の方へかすかに聞こえた。

下男が目を覚まして「どれほどですか」と聞くと、「ごめんどうでしょうが1文ほど」と言う。下男は空寝入りして、その後は返事もしないので客はしかたなく帰って行った。

夜が明けると主人はその下男を呼びつけて、何の用もないのに「門口を3尺掘れ」と命じた。仰せに従って下男の久三郎jは諸肌脱いで鍬を取り、固い地面に精魂をつくし、汗水流してようやく掘った。その深さが3尺ばかりとなった時、「銭があるはずだがまだ出ないか?」と主人が言うと、「小石や貝殻よりほか何も見えません」と答える。

すると主人は「それほど骨折っても銭が1文も手に入らない事をよく心得て置いて、これからは1文の商いでも大事にしなさい。

昔連歌師の宗祇法師がこの堺のちにお出でになって、歌道がはやっていたときだったが、貧しい木薬屋ながら連歌をたしなむ人があって、人々を招待し、2階座敷で連歌の興行が催されたが、その主人が付け句する番になった時、胡椒を買いに来た人があった。すると主人は一座の人々にわけを話して座を立ち、一両の胡椒を量って3文の代金を受け取り、さて心静かに一句を思案して付けたのを「さてさて優雅な心がけだ」と宗祇がことのほかほめられたそうだ。

人は皆このように家業を勤めるのがほんとうに大事なことだ。わしもはじめはわずかな元手で一代でこうした分限者(金持ち)になったのは、家計のやりくり一つがうまかったからなのだ。

これを聞き覚えてまねたら悪いことはなかろう。たとえば借家住まいの人は毎日の収入の中から日割りにして家賃を他にのけて置くのがよい。借金もこのようにして、利息を一か月も重ねないように運用してゆけばいずれそのうちには、思いのまま商売が出来るようになるものだ。

借り銭の払い方は、儲けのあった時その半分をとりのけて置いて、銀1貫目の借金なら、毎年100目ずつでも返してゆけば、10年間で支払える。儲けた金を細かに計算もせず、他の金とごちゃまぜにしておいて、帳簿上だけで収支を合わせるようにする人は身上が薄くなるものだ。

自分の金ではあっても、小遣帳をつけるのがよい。買い物というものは、同じように買い物をしていてもだんだんと違いが出てくるものだ。商売のなかった日は少しでも銭銀を出してはいけない。よろずの品を通い帳によって、ツケで買い入れてはならない。その当座には目に見えないから、いつとなくかさんでしまい、支払いの時請求書を見て驚くものだ。

また家屋敷を抵当に置くほどの困った身代になったら、外聞などかまわず売り払ってしまうのがよい。どんなにしても取り戻したためしがないもので、利子が積もるばかりでついにはただ取られるようになるものだ。まだどうにかなる時、よく状況をふまえて家屋敷を売り払い、その地を去って考え方を変えれば、戸棚の一つも残ることになり、どうにかこうにか世渡りはできるものだ」と教訓したのであった。

さて、堺というところはにわか成金のひとはまれである。おやから2代、3代と続いて、昔買い置きした品物を今も売らないで、値上がりの時節の到来を待っているというのは、身代の基盤が強固なところであるからだ。

専売業の朱座の家は落ち着いており、鉄砲屋は幕府将軍家の御用人となり、薬屋仲間はしっかりしたもので、長崎への取引銀をよそから借りるような事がない。世間体は控えめに構えているが、また時によっては人がまねのできないことをしてのける。

たとえば南宗寺の本堂から庫裡に至るまで、一人で建立した人があるが、奇特なことである。心はともあれ風俗は都めいている。この前京の北野七本松で観世太夫の一世一代の勧進能の興行があったが、大判一枚ずつの桟敷を京・大阪に次いでは堺の連中が買い取った。

堺の人の物好きのほどもこれでわかる。奈良・大津・伏見の人も同じ町人なのだが、この桟敷を1軒も買わなかった。

口で言うのは簡単なことだが、町人の気前で大判金1枚をふんぱつして借桟敷を争い、すき間なく立ち並んで見物するというのは、これも千秋万歳の御大に住んでいるお蔭であろう。




2016年6月10日金曜日

巻5(1) 廻り遠きは時計細工

中国人は心が落ち着いていて、家業にもあくせくせず、琴・碁・詩・酒などの風雅な楽しみに日を暮らし、秋は水辺に遊んで月見をし、春は海棠の花咲く山を眺め、3月の節句前の収支決算期とも気付かずにのん気にしているのは、世渡りに無頓着な中国人の習わしで、なまじっか日本でこの真似をする人があるとすれば、とんだ愚か者ということになる。

中国人のある人が、一年中工夫をこらして、昼夜カチカチと枕になり続ける時計細工に手を付けたところ、その子がまたこれを受けついでおおかた成功し、そのあとは孫の手に渡ってようやく3代目に完成して、今では世界の人が重宝するものとなっている。

しかしながら、こんなに年数がかかっては、生活を立てるにはとても勘定に合わないことだ。

世間のことをこまかく気をつけて見てみると、いろいろおもしろいことがあるもので、これもインドネシアから渡来の菓子である金平糖の製法をいろいろ研究してみたけれども、どうしてもうまくゆかないので、唐目の秤目の1斤、すなわち160匁の金平糖を銀5匁ずつで買い調えていたものだった。

近年それが大分安くなったのは、長崎で女の手わざとして造り出すようになり、今では上方でもこれを見習って造り、世間に広まったからである。

初めのうちは都の菓子屋がさまざま苦心したが、ごま一粒を種としてこんなものができることがわからなかったのである。

これを始めに思い付いたのは、長崎に住む一人の貧しい町人であった。2年あまりも金平糖の製法に苦心して、中国人にも尋ねてみたが、まったく知っているという人がいなかったので悩んでいた。

実直な人が多い他国でも、よいことは深く隠すものとみえる。

例えばコショウ粒にしても、これに熱湯をかけて輸出されてきているので、輸入した日本ではそのコショウの木の形を見た人もなく、いくら播いても生えてくることは無いのだった。

だが、ある時高野山の何院とかで、一度に3石ものコショウを蒔いたところ、この中から2本だけ根を下ろして、しだいにはびこり、今では世間にたくさん普及している。

「この金平糖も、種のないところがあろうか。ごまに砂糖をかけてだんだん丸めていったものなのだから、第一にごまの仕掛けに秘密があるのだろう」と考えついて、まずごまを砂糖で煎じ、幾日も干し乾かしたあと、煎り鍋に蒔いて並べると、温まってゆくにつれてごまから砂糖を吹き出し、自然に金平糖となった。

ごま1升を種にして、金平糖200斤になった、1斤銀4分で出来たものを相場の銀5匁で売っていたところ、1年もたたないうちにこれで200貫目を稼ぎ出した。

のちにはこれに見習って、どの家でも女の仕事としたので、これを発明した男は菓子屋をやめて、小間物店をダシ、更に商才を発揮して商売にはげみ、その1代の間に1000貫目の長者となった。

日本に富貴をもたらす宝の入ってくる貿易港長崎に、秋舟が入港したときの景気は大したもので、糸・絹織物・薬品・鮫皮・伽羅などの諸道具の入札は、年々大変な金額にのぼるものなのに、これを一つも余さず落札してしまう。

例えば、カミナリのふんどしやら、鬼の角細工やら、なんでも買い取るところを見ると、世間の広いことが思い知らされる。

諸国からの商人がここに集まるなかでも、京都・大阪・江戸・堺の利発なものたちは、万事の商いを大まかに見積もって取引をし、雲を目印にするような当てにならない異国船相手に投資しても、未回収に終わることが無い。

それぞれの商売にぬかりなく、商品の目利きも心得ていて、見込み違いをすることが無い。

一般に金銀をたくさん儲ける部下は、収支決算はきちんとしておいて、私事に使うのも上手だし、逆に実直に構えて倹約しすぎる部下は、儲けるのが下手だ。上方の金銀は無事に上方に帰宅することだろう。

長崎通いの商売は海上の波風の心配の他に、いつ起こるとも知れない恋風が恐ろしい。

雨が降って物淋しいある夕暮れに、部下たちが大勢寄り合い、めいめいの主人が分限者になった由来を語り合ったが、なにか種がなくて長者になった人は一人もいなかった。

まず江戸の手代が話したのは、「私の主人は伝馬町の者で、わずかな身代であったが、さる大名の御厄落としの金子430両を拾ってから、だんだんと大金持ちになられたとかいうことだ。」。

また、京都の手代が語ったのは、「私の親方は小さな商人であったが、世渡りがうまく、世間でまだやっていないことでなくてはダメだと、葬式の貸衣装屋をはじめ、額烏帽子・白小袖・無地の袴の喪服一式、それに棺桶用の駕籠までこしらえて、急場の用に間に合わせ、この貸賃が積もって、ほどなく東山に楽隠居を構え、世間で3000貫目の財産と言われているが、その評価はくるっていないでしょう。」。

さて大阪の手代が語るには、「私の旦那は人と違って定まった女房を持っていなかった。これは家計の失費を考えて持たないのかと思えばそうではなかった。一生結婚するつもりのない後家を探して、かれこれ年を過ごしているうちに、器量の悪いのをかまわず、



2016年6月9日木曜日

巻5(2) 世渡りには淀鯉のはたらき

人の家業は早川の急流に設けられた水車と同じく休みなく勤めるべきであるが、その流れの速さも一昼夜に75里と見積もられていて、数学者も年月の流れの速い世の中そのままであることは計算している。

大晦日が闇夜であることは、秋の月夜の頃からすでに計算上判りきっている事なのに、人はみなその時に直面してからこのことを驚き感動するのである。

前々から商人はそれを気にしながら商いをし、職人はそれぞれの細工をとり急いでやっているのだが、必ず日数が伸びて予定がはずれていくものなのだ。

また、売掛金の代金も例えば10貫目のものなら、3分の1として3貫目しか取れぬものと見込んでその範囲で自分のところの支払いをすれば世間に尻尾を出さず、きつねよりも上手に化けすまして世渡りが出来るわけだが、そのテクニックこそ人の才能というものなのだ。

商い上手な人が言ったことがある。「掛け売りの代金は取りやすいほうから集めるものだ。いつでもわけなく取れるものときめて残しておくと案外手間取ったり、あるいは留守だというので何度も足を運んで効率の悪いことになるのだ。

そもそも借金の取り立ては世の無常を観じて慈悲の心を起こしてはならない。

日暮れの寺の鐘の音が鳴っても、平然と鐘ならぬ金の袋に魂を打ち込んで、言葉使いは丁寧にして顔つきは恐ろしく見せ、台所の板の間の中ほどに腰掛け、煙草も吸わず茶も飲まず、おかみが笑顔で話しかけても聞こえぬふりをして、肴掛けやぶりや雉子に目をつけて、「今年の年末のお支度はお見事なことで、庭に三石の俵が積んであるのは上方米とみえました。いつもより早い餅つきで鍋のふたまで新しくなって、娘さんの正月小袖は紫の飛鹿子に紅裏をつけられて、これでこそ春の気分にもなれましょう。私どもはそれどころか、盆踊りのように胸が躍って落ち着かず、伊勢踊りの文句ではないが、松原通りを超えてこちらへ伺いましても、門飾りの山草一葉、数の子一つもいまだに買えません。せがれの去年の手織り縞の袷にせめて綿でも入れてやりたいと思いながら、それさえも出来ませんのにこちらの御様子を拝見しますと長者というのはまさにこういうものだと思われます。このような結構な節季仕舞いは江戸ではどうか知りませんが、少なくとも京にはありますまい。」とその家のよい事ばかり言って小うるさくプレッシャーを持ちかけていくと、他の支払いを差し置いても、自分の方から払ってくれるものだ。

寒い折だからといって掛取り先の家で酒を飲んだり、湯漬け飯を食うようなことは絶対にしてはいけないことだといったのである。

買掛金を支払う側からすれば、飯を食わせてやったんだから支払いは遅れてもよかろうと思いがちだ。また、いつも借り銭の淵を渡り慣れていて、何度か苦しい年の瀬を越した経験のある人が言っていた。

「世間の習いで掛買いをするのは互いに承知の上の事なのである。例えば新米1石銀60匁の相場の時でも、65匁の値段にして、しかも下等米を渡すものなのだ。油も1升銀2匁の時でも、2匁3分の値をつけて金利を含んで売られるが、このほか味噌・酒・薪に至るまで万事この通りにして掛け売りするのだから、これをまともに払っていては年中その商人に奉公しているようなもので、自分の家計が苦しくなるのは当然だ。

だから支払いの方は、少しの借金の方から支払い、たくさんある方は払わずにおくものである。手元に銀の貯えがあったとしても、大晦日の夜に入ってから渡したほうがよい。そうすれば掛け取りはたいてい根負けして、「残金は正月飾りをしまう松の内までには何とか払います」という言い訳を承知して、銭の相場を偽ったり、銀の目方をごまかすのも承知で構わず受け取りってしまい、借金を返してもらっただけなのに拾い物でもしたようなラッキーな気分がして、これを手に握りしめて門口に走り出し、「情けない。この家とは二度と商売はしない」と心の中で誓っても、商売人の習性として年が明けるとまたそれをけろりと忘れて、もと通りに商うものだ。

こうしたやり方は誰しもわざとやっているわけではないが、家計が苦しいところからついつい悪心が生まれてしまうものだ。」と。

ここに山城の淀の里に山崎屋といって、家業は親の代から油屋だった男がいたが、家職の油をしぼる搾り木のくさびを打つ槌の音を嫌い、不必要なほどにきれいごとを好んだので、この家の福の神は塵にまじって住んでおられたが、塵を掃きだす竹ぼうきに恐れをなして出て行かれたのであろうか、次第に家業が淋しくなり毎年持ち銀の残高が減り、自然と槌や碓の音も聞こえぬようになり、いつとなく灯し油も事欠くようになって、家運が衰えてしまった。

そうなってからにわかに昔の富貴を願って近くの宝寺にお参りして祈ったが、その甲斐はなく手と身ばかりの無一文となってから思案してみたところで、今更どうにも世渡りのしようがない。

淀の小橋の下に魚はいるが、「網なくて淵をのぞくな」のことわざ通り、用意がなくては魚を捕ることも出来ない。そうかといって、網にかけて阿弥陀を引き上げたという弥陀次郎の後を慕って出家する気にもなれないので、「ともかく身を捨てて稼いだら『遅牛も淀に着く・早牛もどちらも淀に着く』のことわざのように、いつかは目的を達し、淀の水車のように回り合わせがよかったら、再び家が栄えることもあろう」と思い、商売を替えて鯉・フナを担って京通いを始めた。

しかし、淀の名物の川魚だと言い立てて売りさばいたので、人にも顔を見知られるようになり、淀の釈迦次郎とあだ名して川魚の用がある家では彼の来るのを待つほどになった。

そしてその後は淀の里から手ぶらで京に出て行って丹波や近江の国から都へ運んできた鯉やフナを買い請けて、一日の間にたくさん売ったのだが、世間では淀の川魚はさすがに風味が格別だと評判して同じ鯉やフナなのに、他の魚屋のものは買わなくなった。

商人というものは何よりも信用を獲得することが大切なのだ。 その後は刺身を売って盛り売りを始め、5分・3分ほどの額でも注文に応じて調えて売ると、京は台所の事に細かいところだから、お客への御馳走をするのにもこれで間に合わせるようになるほど流行ったので、いくらもたたないうちに資産家になり、今度は金銀の貨幣を並べて両替店を出した。

たくさんの手代をかかえるほどに繁盛した。この家が繁盛しているときは、昔の鯉売りのことはいい出す人もなく、身なりもおのずから都めいて、上流の新在家衆の衣装をまね、油屋絹の諸織を憲法染めの紋付に仕立て、袖口には薄綿を入れ、それを3枚重ねにして小褄を高く取らずに裾長に着こなし、同じ憲法染めの羽織を上に着た姿はゆったりと見えて歴々の町人であるとは言わずとも知れた様子であった。

例えば公家の御落胤、または大名の血筋を引いているからといっても、伝来の剣を売り食いにし、運は天にあり、具足は質屋にありではまさかの時の役には立ちがたい。

ただ知恵才覚が大事だと言ってもそれが処世の役に立つかどうかなのである。

貸し借りの決まりをつける世間の総決算の時なので、一年の暮れほど恐ろしいものはない。それを油断して、12月中ごろ過ぎあたりから考えはじめるのでは手遅れだ。なにもあくせくする必要のない神社やお寺でさえ、正月に備えてご祈念の守り札やお年玉扇の用意をしたりするのだから、、ましてや職人や商人の家で、一年は13か月もあるかのようにのんきな顔つきをしていたのでは、貧乏の花盛りになるのはたちまちのことであろう。

世間並みの年越しをしてこそ、新年になっての心もちも良いものだ。それなのに医者の薬代は承知していながら払わず、丁稚に着せる布子は手染めの浅黄色に仕立てて着せるほどの切迫した家計では、いくら自分が主人なのだからといってもおもしろいはずがない。

京の町にも人さまざまの歳末の風景がみられ、年の暮れに初春の歌を案じているのなどは、さすがの今日の風俗ではあるが、こうした豊かなひとはまれで、大方は貧しく悲しい世渡りなのである。

鯉屋の手代が独立して小さな米店を出し、わずか5貫目の元手で大豆を粉にくだいてばらまくように、方々に少しづつ掛け売りをしてこれを暮れに取り集めるのであったが、小家がちなあたりの貧しい世帯の様子を見ると、人の世の悲しみを痛感するのであった。

もはや12月も28日、しかも小の月の晦日で明日が大晦日なのに、今日と明日とに支払いが迫った節季前のひとく忙しい時期の片手間に、下機で木綿を一反織っている家がある。それを織り上げて金にかえ、正月支度のためのもろもろの品も調えようとの算段なのである。

またある家に行くと、屑屋を呼び込んで鏡台の金具、銅網のネズミ取り、禁中熊手1本、爪の折れた五徳1つを取り集めて出したが、値段が折り合わず、屑屋は銭130文と値をつけただけで買わずに行ってしまった。

夫婦は人の聞くとも知らず、「貸銭のほうははじめから返すつもりはない。銭500が天から降ってくれないものか。それだけあれば年男になり、豆を播いてゆっくりと年がとれるのに」とぼやいている。

可哀そうに、かわいい盛りの娘が「今いくつ寝てから正月になるの」と聞くのを、「米のある時が正月だよ」と、にらみつける顔つきが恐ろしくて、門口から掛け金も請求することなく帰ってしまった。

また、ある家に入ると、いかにも言いがかりをつけそうな女が薄い唇を動かして、「お前さんのとこから米代の催促に再々の御使いを寄こしたが、借りるのも世の習いなのに、されむごい言葉使いで「首を引っこ抜いても今取って見せる」と言われたのを聞いてから、うちの亭主は震いがはじまって、いまだに枕が上がりませぬ。4匁5分やそこらの借金で首を抜かれるのは口惜しいことだ」と、大声を上げて泣くので、とやかく口論するのもわずらわしいので、「よくよく養生してください。命があったら春になってから相談しましょう」と言い捨てて帰った。

またある家に行くと浅黄色を千種色に染め直し、袖下に継ぎの当たった布子にお神酒を供えて喜び、「これはなんと丈夫な着物だろう。この17、8年の間も冬中は質屋の蔵にあったのが、ここへ戻って正月をするというのはまことにめでたいことだ」と言っているところへ行き合わせて、「勘定をしましょう」と言うと、18匁2分の勘定書に対して、銀包みの表に「1匁6分数一つ」と書き付け、しかも質の悪い銀貨を差し出して、「これはお前さんのところの支払い分として秤に掛けておきました。いやならいやで置いて行きなされ。」と言って猫の蚤を取りながら相手にしてくれないので、これもやむなく取らぬが損だと受け取って帰った。

それから、またある家に行くと、亭主は外出していて留守には器量も十人並みの美人な女房が髪も常よりは見た目もよく結い、帯もよそ行きの物に締め直し、「薄雪物語」や「伊勢物語」などの草紙を取り散らかし、大勢の掛け取りと一緒になって「春はどの芝居が流行るだろう」などと、さてものんびりとした有様であった。「こちらの御亭主はどこへ」と聞くと。「年寄り女房が気に入らぬと言って、私を置き去りにして行かれました。」と言って、ことさら気を引くように笑いかける。「それなら暇をとってしまいなさい。後の引き受け手は誰だ彼だ」などとふざけて、売掛けのほうは心の中で消して帰った。

人間が賢いように見えて愚かなものはない。

借り銭のある家には年末になるとさまざまな知恵を出し、悪企みをする者がいるから油断してはならない。

たとえば、いろいろなものを掛け売りするにしても、その相手とだんだんと親しくならぬように、平生用心するのが商人の秘訣である。

親しくなってよい事もあるが、それはまれだ。

内金を取って物を売るにしても、前からの貸し金の残りがかさむ時は、見切りをつけて棄てた方がよい。

それに未練をもって取引きを続けると、あとには大分の損をすることがあるものだが、皆欲のために先が見えぬからそうなるのである。

この米屋も現金売りで、俵なしに量り売りをしてうた4、5年は儲けが続いていたが、ある時西陣の絹織屋へ俵米を売りはじめ、前納分の代金を引き換えに納品する約束であったが、年々の未済の貸金が増え、勘定は合いながら回収できず、資金繰りがつかなくなり、あとには米をつく碓の音が絶えて、釣掛け升だけが残った。

とかく掛け商いには分別が肝心だ。



2016年6月8日水曜日

巻5(3) 大豆一粒の光り堂

男は土割りの木槌を手にして畑を打ち、女は麻布を上手に織り上げるために大和機にとりついて暮らしている。

東窓に明かりを取った朝日の里に、川端の九助という小百姓がいたが、牛さえ持たずに厩舎のような角屋造りの家にみすぼらしい暮らしをしていた。

幾年も一石2斗の御年貢を量って納め、50過ぎまで同じ顔つきをして変わりばえもなく、節分の夜になると小さな窓にも世間並みに鰯の頭や柊を刺し、目には見えない鬼を恐れて、心祝いの豆をまき散らすのであった。

夜が明けてからこれを拾い集め、その中の一粒を野に埋めて、「もしかしたら煎り豆から芽が出て花の咲くことがあるかもしれぬ」と待っていたところ、万事はやってみなければ分からぬものであった。

その夏、青々と枝が茂って、秋にはおのずと実って手一杯に余るほど取れたのを溝川に蒔き散らし、それから毎年刈り入れ時を忘れなかったのでしだいに収穫がかさみ、10年も過ぎると88石になった。

その代金で大きな灯篭を作らせ、これを初瀬街道に建てて、闇を照らし今でも豆灯篭といって、その光を伝えている。何事でも積もれば大願も成就するものである。

この九助はこうした心がけから、しだいに家が栄え、田畑を買い求めてほどなく大百姓となった。季節季節の農作物に肥料を施し、田の草を取り、水を掻いて手入れをするので、自然と稲が実って、房ぶりがよくなり、木綿もたくさんの蝶がとまったようにみごとに花をつけ、人よりも多くの収穫があったが、これは自然にそうなったわけではない。

朝夕油断なく鋤・鍬のちびるほど働いたからである。

万事につけて工夫に富んだ男で、世間で重宝がられるものを発明した。

鉄の爪を植え並べて 細攫(こまざらい)というものをこしらえたが、土をくだくのにこれほど人の助けになる物はない。このほかに唐箕や千石通しも発明した。

また、これまでは麦の穂を扱く手業もめんどうだったのに、尖った竹を植え並べて、これを後家倒しと名付け、昔は2人がかりで穂先を扱いでいたものだったが、これは力もいれずにしかも1人で手まわしよく使えるように工夫したのであった。

さらにその後、女の綿仕事をまどろっこしく思い、ことに弓で綿を打つのはようよう一日仕事に5斤しかこなせないことに目をつけて工夫し、中国人のやり方を尋ねて唐弓という道具をはじめて作り出した。

世間には内緒にして横槌で打ってみたところ、一日に3貫目ずつもはかどったので、雪山のように繰り綿を買い込み、多くの人を雇って打たせ、打ち綿をむしろで梱包して幾本となく江戸に輸送して、4、5年のうちに大金持ちになって、大和では隠れもない綿商人となった。

綿の集散地の平野村や大阪京橋の綿市場、同じく大阪の綿問屋の富田屋・銭屋・天王寺屋などへ毎日何百貫目というほど売り込み、摂津・河内両国の綿を買い取って、打っては送り出して秋冬のわずかの間に毎年利益を得て、30年余りの間に1000貫目の身分となったことを書置きして、自分一代は楽をするという事もなかったが、子孫のためによいことをして、88歳で亡くなった。

まさに死に栄えというべきか、立派な葬儀をして、ちょうど10月15日のお釈迦様が悟りを開いた日で十夜念仏の終わる日でもあったから、極楽往生は願いのままで、野辺の送りをして火葬し、それから百カ日過ぎた。

遺言通りに在原寺の法師を立会人にしてお坊さんに供する午後の食事である御非時を差し上げたうえで、遺言状の箱を開いてみると、「有銀1700貫目、一子九之助に相渡し、なお家屋敷・諸道具の儀は書き載せるまでもなく譲る」とあった。

さて親類のほうへそれぞれ形見分けの書付があるのを読むと、「三輪の里の叔母の方へ手織りの算崩し模様の木綿の袷一つ、紬地の襟巻、桑の木の撞木杖一本を贈る。吉野の下市に住む弟の方へ、三ツ星小紋の布子にもじの肩衣を送るがよい。岡寺の妹には花色の布子に黒い半襟のかかったのを一つ、生平の帷子を添えて与えるがよい。柿染めの夏羽織は袖のネズミのかじった跡が見えないように継当てをして信心仲間の仁左衛門殿へ進呈するように」とあった。

また、家に久しく奉公してきた2人の手代があったが、1人にはそろばん、もう一人には使い慣れた秤をゆずるようにとあった。

遺言状を見る前は期待をしていずれの者たちも開くのを待ちかねたが、どうしてどうして、金銀のことは1匁も書付がないので、おのおの呆れ果て、「金のある親類も銭銀の頼りにはならないものだ」と今までこぼした涙を拭い去ってこの家を見限り、それぞれわが里へ帰って行った。

だが、考えてみれば1700貫目の銀はこの人一代の間の倹約で増やしたものだから、親戚一門が欲しがるからと言ってたくさん配ってくれるはずもないのである。

この九助が一生贅沢な絹物を肌に着なかった証拠は、このたびの調べで判った。42年の厄年に絹のふんどし一本を初めて買われたが、少しも汚れ目がつかず、そのままに残っていた。

この父親の身の回りのものといっては以上のほかには何もなく、遺言状の示す通りで、藤巻柄にクルミの目抜きのあいくち1本、なめし革横ひだの巾着にシカの角の根付けをつけたもの、これらのほかに装身具としては何一つなかった。

せがれの九之助はこれを情けなく思い、早々と遺言状に背いて親類手代までもそれぞれに銀を分けて与えたが、それを親とは格別に違う志だと、人々はみな喜んで出入りするようになり、そのまま昔に変わらず商売した。

ある時、九之助は多武峰のふもとの里の仁王堂というところに、京大阪の同性愛者である飛子の隠れ家があるのを教えられ、知り合いの人にそそのかされて通い始めた。

これがしだいにつのって、男色・女色の恋の二道をかけて、通い始めた奈良の木辻町での遊女遊びもほどなく嫌になって、今の都の島原の太夫和国・唐土までも、引船女郎の勧めるままに買い続けてとめどがきかなくなった。

母親が嘆いて十市の里から美人の娘を嫁に呼び迎えたが、色里の美女を見慣れた目であるから、なかなかこれぐらいでは遊び止まらず、これを苦に病んで母親もとうとう亡くなってしまった。

それから後は、意見を言う人もなく、万事を忘れ果てて長年にわたって遊蕩を続けた。その後は召使までも見限ってまともに勤める者もいなくなった。

けれども夫婦の間にいつとなく男子が3人生まれて、跡継ぎの心配はなかったがいよいよ九之助は酒と色との2つに身を痛め、8、9年のうちに命も危ない身となって、34歳の年に頓死し、今さら驚いても甲斐が無く、野辺の送りをすました。

九之助も最期が近いことを覚悟して、かねて遺言状を書いておいたのであったが、手代どもが集まって、「お子たちはまだお若いので、あとのことが心配です。金銀はわれわれの手元に預かっておき、皆様が成人なされた時分にお渡ししましょう。」と誠意を尽くしての内々の相談をしたが、さすがに昔の恩を忘れぬ者たちだと、土地の人々は感心し、とりあえず書置きを開いてみたところが、皆々横手を打って呆れたのも道理であった。

というのは、有銀1700貫目は使い果たし、これは借り銀の書置きだったのだから、興ざめしたわけであった。

その書置きには、「京井筒屋吉三郎殿に小判250両の借りがある。これは遊里で急に金の必要な事ができてしまい、借用して恥をまぬがれたのだから義理のある借金なので、これは跡取りの九太郎が成人した後一生懸命稼ぎ出して返してもらいたい。

また、大阪の道頓堀での遊興費の未払い分が箇条書きにしてあるので、これは九二郎が返済してほしい。

このほかあちこちに掛け買いの借金があるが、わずか30貫目ほどだから、これは九三郎がおいおい払ってほしい。

家屋敷・諸道具は土地の人たちへの借金の代わりに引き渡して、競売してもらいたい。死後の供養は後家にやらせるがよい。書置きは以上」と書いてあった。




2016年6月7日火曜日

巻5(4) 朝の塩籠夕べの油桶

「こりゃこちらへ御免になりましょ。

鹿島大明神様の御神託の中に人の身代について「ゆるぐともよもや抜けじの要石、商い神のあらんかぎりは」と申す御詠歌がござりまするが、その心はすべてのなりわいの道は、稼ぐに追いつく貧乏なしとはこういうことでござる」と、鹿島の言触が言ってまわっているが、これを正直に受け取っておいて、一文の銭でも無駄にしてはならないのである。

昔、青砥左衛門が、たいまつで鎌倉の川に落とした銭を探したのも、世のお宝の朽ちすたるのを惜しんでの深い思案からである。

しかし、それは最明寺(入道時頼)の時代のことで、松・桜・梅を切って薪屋をしても、ぼろ儲けのあった時代の事である。

今は銀が銀をもうける時代であるから、なかなか油断しては世渡りは出来ない。

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ここに常陸の国に、その身代一代のうちに分限になった人がいて、10万両の金を持ち、その名もこがねが原という所に住んでいた。

その名は日暮らしの何某といい、棟の高い立派な家造りをしていて、人馬をたくさん抱え、田畑は100町を超え、家は栄えて何の不足もなかった。

下々の村人たちを憐み、慈悲の心が深かったので、この人は土地の宝だと村の草木までもなびくほどであった。

この人もはじめはささやかな笹葺きの家に住んでいて、夕げの煙も細々と立て、朝の米びつも乏しく、着物も春と夏との区別がなく同じものを着て、ひたすら実直に働き、夫婦もろともにつらい暮らしをしていたのであった。

朝は酢・醤油を売り、昼は塩籠を担い歩き、夕暮れは油桶を代わって担ぎ、夜は馬の藁沓を作って馬方に売り、若い時から一刻も安閑としていたことがなかった。

それで毎年の暮らし向きがよくなって、50余歳までに銭37貫文を倹約して貯えた。

この男は商売をはじめて以来、一銭も損をしたためしがなく、毎年利益を得たけれども、元手がわずかなことなので、金子100両になるのはなかなか難しかったが、ようやく100両にしてそれからしだいに東長者といわれるほどになったのである。

その上、男の子ばかり4人もあって何の不足もない身の上であった。

ここは江戸からほど近い所なので、この人が頼もしい人柄であることを聞き伝えて、厳しい浪人の取り締まりのあった時代ゆえ、長い浪人暮らしで身の置き所のない者たちが、この人にゆかりある方からの紹介状をもらって、このこがねが原の里に行ってひたすら庇護を頼んだところ、この男は思いやりが深い人だったので、藁葺の庵を貸し与え、扶持米まで分け与えた。

そののちには7、8人にもふえて小うるさいほどであったが、浪人の奉公口がなかなかない時世なので、皆仕方なくこの里で月日を送っていた。

この中に森島権六という男がいたが、少し教養のある者で学識があったので、人の道を忘れず、このように厄介になっている御恩返しにせめて何かお礼をしなくてはと思い、4人の子供に4書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を授けたのは感心なことであった。

また木塚新左衛門という男は、次男をそそのかして吉原通いの色遊びの手ほどきをして、だいぶの金銀を使わせた。

宮口半内という男は、小刀細工が上手なので、卯木で作った耳かきやネズミの彫り物を工夫し、明け暮れ油断なく精を出して働き、それを江戸の通り町に送って売りさばき、5、6年のうちに銀を貯めたのは、こうした落ちぶれの身の上にありながら、大変な才覚を発揮した男だといってよい。

また、大浦甚八という者は小唄や小舞に夢中になり、後にはおのずから正確に拍子も飲みこんで、人のするほどのことで習い覚えられないものはなかった。

また、岩根番左衛門という人は、ひときわ目立つ大男で、髯もじゃで目つきがするどく、弁舌の優れた人物がなる武家の御使番にしても300石ほどの値打ちがあると見えた。ところが、この人は風采に似合わぬやさしい心があって、仏の道を信仰し肌身を刺す蚤を殺さず、足元のミミズを踏まず、生来の正直者ではあったが、それにしても顔つきだけは恐ろしかった。

赤堀宇左衛門という男はこのような身の上になっても鉄砲を残して置いて、無益な密猟をしたり、野山の狼を殺したり、鞘が触れたといっては喧嘩をし、武勇を誇っての口論をしたりして、一年中わがままに振る舞っていた。そして、人それぞれの心にこのような違いがあるのが浮世の常なのだと思ってその浪人たちをかくまっていた主人は、この善悪を問いたださずに放っておいたのであったが、公儀の浪人改めが行われた際に皆そこを追い出されてしまった。

その後つらつらと世間の様子を見ているとこの浪人たちがいろいろな身の上になってゆくさまがおもしろい。

書物好きの権六は貫だの筋違橋で太平記の勧進読みとなり、好色な新左衛門は十面新吉と名を呼ばれて浅草の田町で茶屋をはじめて日頃達者な口三味線が物をいって太鼓持ちとなった。

細工上手の半内は芝の神明神社の前で大道に渋紙を敷いての小間物売りをし今でも昔を忘れずに編み笠姿なのがおかしい。

音曲好きの甚八は坂東又九郎の一座に入って、ようよう食うだけの給金で抱えられ、朝から晩まで「ごもっとも!」というセリフだけの端役に使われ、役者稼業の道にすっかり落ち着いている。

浪人しても武士顔をやめなかった宇左衛門は願いのままに馬に乗る身となり、供に十文字槍を持たせ、以前の知行どおり500石取りの侍に返り咲いている。

また後生願いをしていた番左衛門は、いつしか墨染の衣を着て、その大きな姿のままの芝の大仏のほとりに住んで、我とわが心を責めながら一心に責め念仏を唱えていたが、それは返すがえすも口惜しい身の行末であった。

かつては皆知行まで取った者でありながら、死ぬに死なれぬ命なので、このように落ちぶれたのである。

「これを思うと、めいめいの家業をおろそかにして諸芸を深く好んではならない。これらの浪人たちも日頃好きな道で世を渡る身の上となってしまった。人にすぐれて器用といわれる事は必ずその身の仇となるものだ。公家は和歌の道を、武士は弓道の道をはげみ、町人は算用をこまかにして天秤の測り方を間違わぬようにし、手まめに出納簿を付けるのがよい」とこがねの里の長者は大勢の子供に言い聞かせたのだった。




2016年6月6日月曜日

巻5(5) 三匁五分曙のかね

万年暦の吉凶や相性が当たるのも不思議だが、当たらないのもおかしいものだ。

近頃の縁組を見ると、相性や容貌などには構わずに持参金をつけてよこす金性の娘を望むことが世間の習わしとなった。だから今どきの仲人はまず持参金の内容を詮索して、その後で「その娘は片輪ではないか」と尋ねるのである。

昔とは大変な違いで、欲のために人の願いも変わってきたのである。

淵となり瀬となって流れる和気川の上流に久米の佐良山というところがあるが、そこで新所帯をもってから、月日のたつうちにしだいに金持ちとなり、美作では知らぬ者のない長者蔵合と肩を並べるような人の知らない大分限者に万屋という屋号の者があった。

一代で稼ぎ溜めた銀の山は夜になるとその精が呻きわたるのであるが、貧乏人の耳に入ることではない。

しかも贅沢をやめて家の棟も世間並みの高さにし、元日にも婿入の時に仕立てた麻袴をはいて、40年このかた年賀の礼に務めてきた。

世間では何染・何縞がはやろうと構わず浅黄の7つ星小紋に黒餅の紋を付けた羽織を着て、着物は花色よりほかにはモミジも藤色も知らず、幾年かを過ごしてきた。

蔵合という家は、蔵の数を9つ持つほど富貴であったから、これまた国の飾りとなるものでもあった。

それに対して万屋は世間には知られない金持ちで、一人息子に吉太郎という者があったが、13歳の時鼻紙入れに遊里で使うような上等な小型の杉原紙を入れているのを見て勘当し、播州の網干におばがいたのでそこへ遣り、「那波屋殿という分限者を見習え」といって我が子を見捨て、その後いもうtの一子を見立てて引き取り、25、6歳までも手代同様に働かせたが、その男の倹約ぶりといったら廃れた草履までも拾い集めて瓜の苗床用にと実家へ送るのを見て気に入り、これを養子として家を渡した。

そこでそれ相応の嫁を探していると、世間の人とは違いこの男は「なるべく嫉妬深い女がいたら、わたしの嫁に貰いたい」と願うのであった。

世の中は広いもので、思い通りの娘があって縁組をすまし、万屋夫婦は隠居をして財産を残らず譲り渡したが、この跡取り男は金銀のあるにまかせて少し調子づいて派手になり、妾を探したり、旅回りの少年役者狂いをしたりしたところ、例の嫁は約束どおりやきもちを焼きはじめ、大声を立てるので、世間体をはばかって自然に色遊びをやめて、酒を飲んで宵から寝るよりほかはなかった。

そうしたわけで、主人が家を出ないのでまして手代どもは灯火の影に座をしめて、慰み半分に帳面を繰りひろげ、丁稚は加減算を算盤で習うよりほかなく、家のためになることばかりであった。

はじめのうちは笑っていた御内儀のやきもちが、家のためになるものだと皆々思い当たるのであった。

いったい親が子に対して寛大すぎるのは家を乱す元である。

ずいぶん厳しくしつけてもたいていは母親が子供とぐるになって抜け道をこしらえ、身分不相応な浪費をするものだ。

厳しいしつけはその子のためになり、甘いのは仇になるものだ。

この万屋の老夫婦が亡くなられた後、嫁が伊勢参宮をして、帰りに京・大坂を見物し、人々の洒落た風俗を見ならってその姿を真似るにつれて、心もその通りに都風になって、やきもちというのは野暮な者のすることだと慎むようになったので、亭主はこの時とばかりに浮かれ出し仮病を使いこの土地での養生は思わしくないといって上方に上り、男色・女色の両道にふけって、毎日金銀を使い散らした。

そのため、いつのまにか恋ゆえに身代がほころび、針を蔵に積むということわざのとおり、いくら金銀があっても足りるはずがなく、長い間この家に住みなれた金銀に憎まれ、内蔵の福の神がお留守になった時、亭主はようやく迷いの夢から覚めて驚き、商売を大規模に変えて両替屋をはじめたのであった。

店つきを広くして人の金銀を限りもなく預かり、あちらこちらとこれを運用して、この調子なら再び以前の身代に回復しそうに見えた年の暮れとなった。

だが、人の内証は張物というたとえのとおり、見かけ倒しで内実は苦しいので、大晦日の提灯も、預金を引き出しに人が来たかと恐ろしくなり、「収支勘定も今宵一夜を越せば、明日からはゆったりできるぞ」と有金一文も残らず支払帳につけて、算用をすましたが、夜明けに近い七つの鐘が鳴る時にはどんなにしてみてももう一文の銭もなくなり、新年の縁起物の若恵比寿売りを呼び込んではみたが、買う銭が無く、「烏帽子おかぶらぬ恵比寿があったら買おう」などとごまかして帰した。

それから間もなく門を叩いて兵庫屋という人が革袋を持たせて来て、「小判5分の豆板銀が悪金だったから取り換えてもらいたい」と差し出した。だが、それを取り換える銀がなくて、万屋の身代の正体がばれてしまった。




2016年6月5日日曜日

巻6(1) 銀のなる木は門口の柊

中国の文王の庭園は70里四方あったとかいうことである。

そうした広い園内の千草万木の眺めも、一間四方の空き地にひいらぎ1本植えて眺めるのも、わが屋敷と思えば楽しむ心の変わりはない。

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ここに越前の国敦賀の大湊に年越屋のなにがしといって、富裕な人がいたが、この土地に久しく住みなれて味噌・醤油を造り、初めは小資本の商人であったが、しだいに家が繁盛したのであった。

世渡りの万事につけて抜け目がなく、金持ちになったそもそものはじめはこういうわけだった。

山家へ毎日売っている味噌をどこの店でも小桶や俵をこしらえて入れるのでその費用が莫大である。そうしたときにこのおやじが新しく工夫して、世間の人が7月の魂祭りの棚を壊してお供えした桃や葉を拾い集め、それで一年中の小売味噌を包むことにした。

この利口なやり方を世間でも見習い、いまではこれに包まずに売るような国はなくなっている。

さて、ほどなく大屋敷を買い求めたが、その庭木にも花が咲いて実のなるものを植えて眺め、生垣にもクコ、ウコギのような役に立つものを茂らせ、萩は根こそぎにして抜き、もっぱら観賞用の風車などはやめて、実が食用となる18ささげに植え替え、同じつる草でも実益のあるものを好むのであった。

またクラゲを漬けた桶の不要になったのにも蓼穂を植えるといった具合に、目のつくほどのことで一つとして愚かな仕業はない。そして、かつてうえたひいらぎがやがて大木となって、今ではその家の目印となっている年越屋を、世間で知らぬ人とてはなかった。

節分の夜も疫鬼払いの「鬼の目突き」にこの自宅のひいらぎを用いるのは、買えば一枝1文の事であっても、一代のうちの失費を考えた上でのことであり、そんな考えに立って、13,000両持つまで取り葺き屋根のの軒の低い家に住んでいた。

そうしているうちに、ある時長男に良縁の嫁があって婚約するにあたり、仲人が薦めて内儀としめし合せ、京から当世風の衣装・織物をととのえ、世間からは笑われない程度の祝儀の酒樽を仕立て、人夫25人の肩を揃えて、先方へ送り届けた。

このときじつはおやじには角樽一荷に塩鯛一掛、銀一枚を結納に祝儀に送ると見せかけたのであったが、それどもおやじは費用が掛かりすぎてもったいないといわんばかりのおっくうそうな顔つきで、「銀一枚よりはかさばって見てくれが良いから銭3貫にしなさい」と言われたのであった。

これほどに世間の付き合いを知らぬ人であるけれども、ただ正直一途で今年60歳代になるまで暮らしてこられたのである。この質素な家から、このような結納を送ったのを奢りのはじめとして、今度は表の店を2階造りにする普請(建築)を望んだが、子供の言うことをなかなかおやじが承知しないので、息子は懇意な町内の人々を頼んだり、またはおやじと来世までもと親しくしている信心仲間や寺の和尚様まで頼みまわって説得し、ようやく願いが叶って工事にとりかかった。

そして、その土地ではひときわすぐれて棟が高く、思うとおりに造り上げて、以前とは見ちがえるようになり、毎日洗い磨きをするので店は光り輝くほどになったが、そのためか近在の山家の柴売りや百姓の出入りが絶えてしまい、商売がにわかに振るわなくなった。

仕込んであった味噌の捨て所が無く、醤油を流す川もないままに、手前から大勢の売り手を繰り出し、昔に変わらぬ風味を売り物にしたけれども、世間の人が皆悪く評判を立てたので、これも売れなくなってしまった。

そこで自ら商売を変えてみたが、しつけないことはあぶないもので、年々に大分の金銀を減らし、また商品の買い置きをすれば、その品は値が下がって損をし、鉱山に投資しては失敗し、またたたく間に残るものは家ばかりとなってしまった。

この家屋敷をやっと35貫目で人の手に渡すことになったのをおやじが嘆かれたが、息子がいうことには「時節の良い折に家普請をしておいたからこそ、このたびこれほどのいい値段で売れるのだ」と、こんな場合になっても役にも立たない自慢をしたものであった。

おやじが40年かかって稼ぎ出した身代を、息子は6年で使い果たしてしまったのである。

さてさて、金銀というものは、もうけにくくて減りやすいものだ。

朝夕そろばんに油断してはならない。「いったい店構えのよしあしについていえば、鮫皮・書物・香具・絹布といった贅沢品の商いは店飾りのゆったりとしているほうがよい。

また、質屋の店構えや食い物の商売は小さい家で気楽な感じなのが良いという事だ。長い商売を続けていて、客の良く出入りするようになった商人の家を普請改築してはいけない。」とは、ある見識ある長者の言葉である。

かの味噌屋は敦賀で呼び迎えた女房は離縁して浜辺の方に小さな店を出したが、これにも所帯を切り盛りする人がいなくてはと、その土地から女房をもらうことにした。

吉日を選んで結納を届けたとき、角樽一荷、鯛二枚、銭一貫文を送った。まだ繁盛していた時におやじをだますために見せた結納のことを、今思い出すのであった。

人みなが心得ておかねばならないのは世渡りのことだ。




2016年6月4日土曜日

巻6(2) 見立てて養子が利発

日本では商い口といって、商人が「儲けは無しだ」とそらぞらしい誓文を唱えると、客はこれに気をゆるしてなんでも買い求めるのが世間のならわしである。

神田明神の前に氏素姓の立派な浪人が隠れ住んでいたが、年も家に杖つくころと言われる50に近いので、もうそれほど仕官の望みも持たず、小者を一人使って一生過ごすだけの貯えがあるところから、世のなりゆきにまかせて気楽に暮らしていた。

けれども、無為徒食の身では世間の口がうるさいので、瀬戸物を見せかけばかりに並べて置き、値段を聞く人があると100文の物を100文と掛け値無しに答えるばかりでこれを値切っても負けることがなかった。だから、店開きをしてからすり鉢9つ、肴鉢13、皿45枚、天目茶碗20、トックリ7つ、油差し2つあったものが、3年余り一つも売れなかった。

これを思うと商い上手という事はやはり必要な事なのである。

そこで、一年中の商人の売り口上としての空誓文の罪を、10月20日の恵比須講でさらりと祓うという誓文払いの行事があるわけだ。その日は、商人たちはすべての仕事を休んで、自分の身代に応じていろいろな魚や鳥を買いととのえ、一家中が集まって酒をくみかわし、亭主の作り機嫌に、奉公人も調子づいて、小唄や浄瑠璃をうたったりするし、江戸中の寺や神社や芝居、その他の遊び場所も大変繁盛するのである。

上方(京都)と違ったところは銀貨のないことで、一歩金の花を派手に撒き散らすことである。

銀とは違って秤がいらないのでこれほど便利なものはない。江戸の人たちはみな太っ腹で、いろいろな買い物をけちけちせずに大名風にやってのけ、見事なところがある。

今日の恵比須講にはどこの商家でも競って魚を買いあさるのだが、この頃は冬なので自然海も荒れる季節なのでいつもより生魚が少なくなり、こと鯛になると一枚の代金が1両2分ずつもして、しかもそれが尾から頭までの長さが1尺2、3寸の中鯛なのである。これを町人の分際で家庭料理に使うということは、いまお膝元の江戸に住む商人であればこそできることなのである。富豪の多いはずの京の室町では鯛一枚を銀2匁4、5分で買い取り、それを5切れに分けて秤で量って受け取るなど、気前の良い江戸に見比べてみると、いかにも都のケチなことがおかしい。

ここに江戸通り町中橋のあたりに銭店を出して、手代を大勢使っている人があった。

日頃は倹約第一の人であったが、今日は1両2歩の鯛を買って恵比須講の祝儀を催したところ、一同は何心もなく夕飯を祝っていただいた。ところが、大勢の若い奉公人の中に最近伊勢山田の者だといって十年の年季で雇った14歳になる丁稚がいたが、据えられた膳を2、3度おしいただき、飯を食わぬ前に算盤をはじいて、「お江戸に来て奉公をしたからそここんな贅沢な御馳走にもありつけるのだ」とひとりつぶやいて喜んでいる。

それが主人の目にとまって、そのわけを尋ねられると「それでは申し上げますが、今日の鯛の焼物は、値段が一枚1両2分で、背切りが11切れでございますから、一切れの価値が銀7匁9分8厘ずつに当たります。小判は1両が銀58匁5分の相場と致しました。そのように計算してみますと、まるで銀を噛むようなものでございます。塩鯛や干鯛ももとは生なのですから祝う心は同じことです。生鯛をいただいた今日の腹具合もいつもと変わったことはありません。」と言った。

主人は横手を打って感心し、「なんとまあ利発者であろうか。分別盛りの手代どもでさえなんのわきまえもなく、箸は右の手に持って食うものとだけ心得て、主人の恩も知らないでいるのに、まだこの若さで物の道理を知っているとは、天のおぼしめしにも叶う者だ」とすっかり気に入り、親類中を呼び寄せて一部始終を語り、「この者を養子分にしてわが家に譲ることにしたい。」と一途に夫婦とも思い込んで、伊勢の親もとへ相談する人を遣わすことにした。

その時、この丁稚はその話の席へ膝を進めて、「まだお馴染みもないうちにそのような思し召しのほどはかたじけないことです。けれども国もとへの御使いは御無用でございます。話がまとまりません時は、その費用だけ無駄になります。ことに御身代のことにつきましては「世は張物」とも申しますから、表向きのやりくりがうまくいっているだけで、たくさんの借金があるかもしれません。そのあたりをよくよく見届けないうちに養子の契約はできません」と言うので、主人はなおこの言葉に感心して、「お前が不安に思うのももっともだ。だが、わが家では一文たりとも人の物を借りたことはことはない」といって毎年の勘定帳を見せると、「有銀が2800両」と記してあって、「このほか金子100両、のちのちの女房の寺参り金のために、この5年前に別にして置いた」と言って、包みのまま封じ目に年号月日を書きつけてあるのを取り出して見せた。

丁稚はそれを見て「さてさて商い下手なことです。包んでおいた金子は一両も増えはしますまい。働きのある小判を長櫃の底に入れて置いて、長い間世間をお見せにならないというのは商人気質とはいえません。こんなお心掛けだから大分限の大金持ちにもなれず、頭の禿げるまでこのお江戸にいながらやっと3000両の身代。これで大きな顔をしていらっしゃる。私を養子になさる以上は4、5年のうちに江戸で3番目以内の両替屋になって見せますから、それを長生きしてご覧になってください。

まず御夫婦は今日から毎日お説教のある寺に参詣なさって、その帰りに納所坊主に近づいて、お賽銭をあるだけすべてお買いなさい。そうすれば、世帯と信心のどちらのためにもお得になります。お供の丁稚は道中の体裁のためだけに連れてゆくので、あとは手あきなのですから、浮世山椒を仕込んで小袋に入れて行き、お談義のはじまらぬ先に、人々の眠気覚ましにこれを売るのがよろしい。それにまたお供を連れない参詣人たちの笠・杖・草履を説教が終わるまで一文ずつで預かるのがよい。」と指図してやったところ、丁稚は毎日銭儲けしながら、主人の供をつとめるようになった。

このように何事にも気を付けて後には人のおよばぬような知恵を出して、船着場の船頭どもの便利を計った行水舟を工夫したり、刻み昆布をつくって秤にかけて売り出したり、瀝青塗りの油土器、皺紙の煙草入れを作ったり、とにかく他の人のしないことで、15年もたたぬうちに3万両の分限になり、霊厳島に隠居して、二人の養い親に孝行をつくした。

いかに繁盛するお江戸の地だからといって、人並の働きで長者になることはできないものだ。三文字屋という人が昔、懐中合羽を発明しそれから馬道具を仕込んでしだいに繁盛し、国産の絹織物はもとより、唐織物まで仕入れて、毛類は猩々緋の100間続きでも、虎の皮1000枚までも用意し、黄羅紗・紫羅紗など京の都にもないものを持つ大金持ちと評判され、中橋の9つ蔵と言われて誰も知らぬものはいなかった。けれども、こういう人は特別に一代で分限になった人であって、たいていは親の遺産がなくてはずば抜けた富豪にはなれないことが多い。

京の室町のお歴々の息子が何の商売もしないで両替屋の善五郎などを頼んで多額の金を貸して生活していた。この利息が毎日235匁ずつの勘定で入っていたのに、どのように使い果たしたのであろうか、15年のうちにその財産をすっかりなくしてしまい、江戸に稼ぎに下った。この男の器用さといったら、謡は350番憶え、碁は名人に二目置くだけ打てるし、毬は最高位の紫の袴を許され、楊弓は金看板を上げられるぐらいの腕前で、小唄・浄瑠璃・茶道・軽口・枕返し・連歌・俳諧・香道の達人であり、何一つとして出来ないことはないのだが、肝心の世渡りの業を知らない。

あてもなく江戸を下って奉公しようとすると、「銀の見分けが出来るか?算盤勘定が出来るか?」と問われると、いまさらに困ってしまい、諸芸のこともこのときの用にたたない。そこで再び京都に上って「とかく住みなれたところがよい」と長年親しくしていた友達を頼み、謡や鼓の指南をして、ようよう身一つだけは養い、普段は質に入れて不自由している着物を、正月の謡初めの時の収入で請け出すのだが、またすぐ質に置いてしまうという有様である。「こんな有様で通るだろうか?人間の身には病気という事もあるのに」とさすがに老後のことを案ずるのであった。「もっとも生きるだけなら60年でも送れるが、世間体を保っては6日でも暮らしにくいものだ。

このことを考えると、それぞれの家業に油断してはならないものだ」とある長者が語った。




2016年6月3日金曜日

巻6(3) 買置きは世の心やすい時

毎年元日に遺言状を書いて、40歳以降はいつでも死を覚悟し、正直に世渡りしているうちに自然と金持ちになった、泉州堺に住む小刀屋という長崎貿易に携わる商人がいた。

この港は長者の隠れ里のような町で、底知れない大金持ちが無数にいる。

ことに名物記に載るような立派な茶道具類をはじめ、唐物・唐織などを先祖から5代このかた買い置きをして、内蔵におさめて置く人もいる。

また、寛永年中から毎年手に入れてきた金銀をいまだ一度も金蔵から出したことのない人もいる。

また内儀が14歳で嫁入りして、持参銀50貫目を持ってきたが、その時の10貫目入りの銀箱を封をしたまま重ねて置いて、その娘の嫁入りのときにこれを持たせて送り出した人もいる。

他の土地よりは勘定高く、しかも暮らし向きの内実がゆったりしているのがこの土地の風習である。

小刀屋はこうした資産家連中と肩を並べるほどの金持ちではないが、はじめに書いた遺言状では資産がわずか銀3貫500目であったものが、25年のうちに自分一人の才覚で稼ぎ出し、毎年遺言状の金額はふえて、いよいよ臨終のときに850貫目の現銀を一子に譲り渡した。

この人は世間の評判が良く、金持ちになる初めは、そのこと唐船が多く長崎に入港して、糸や綿が安値になり、最上等の緋綸子一巻の価格が18匁5分ずつに当たるようになったことからだった。

後にも先にもこんな安値のことはまたとあるまいと思い込み、懇意な友人に商いの望みを語って、一人から銀5貫目ずつ、十人から50貫目を借りてこの綸子を買って置いたところ、早くもその翌年これで大分の利益を得て、35貫目も儲けて喜んでいたとき、たった一人の息子がすべてもう手遅れといっていい大変な重病になった。

全財産を投げ出して治療したが、少しも効き目がないので、さまざまに心配して嘆いていると、ある人が、「まだ駕籠にも乗れず徒歩で回診する医者ではあるが治療の上手な人がいる」といって紹介してくれた。

その医者の手で危なかった病人を7分通り快復させることが出来たのだが、そのあとがはかばかしくないということで、一族が相談して、名医と言われる人に替えてみたところが、またぐんぐんと悪くなって不治の病ときまってしまった。

そこで夫婦は前にかかった医者を念のためにと思い、世話してくれた人に恥も外聞もかまわずに頼み込んで、今は死んだものとあきためながら投薬してもらったところが、半年あまりの後に鬼のように達者にしてくださったので、この医者の手柄が世間に評判になった。

親の身として嬉しさのあまりにあのときの医者を紹介してくれた人のところへ行き、「今日は吉日ですから薬代を御恩を受けたお礼のためにさしあげたい。あなたのほうからお渡しください。」というので、紹介した夫婦はこの礼金について話し合い、「こちらから渡してくれというのであれば、それ相当の礼金に違いない、まず銀5分くらいであろうか」と亭主が推測すると、内儀が言うには、「どうしてそんなに出すものですか。せいぜい銀3枚ぐらいのものでしょう」と言い合った後でさて受け取ってみると、まず銀100枚、真綿20把、酒の一斗樽一荷に箱入りの干鯛という思いのほかの薬代であった。

医者も再三辞退したが、紹介した人も口添えして受け取らせたうえに、銀100枚を貸して、この医者に家屋敷を求めさせた。

するとそれからしだいに流行り出して、まもなくこの医者は駕籠に乗る身分になった。

言ってみればわずかなことではあるが、40貫目に足りない身分で銀100枚の薬代を払ったのは、堺はじまって以来、町人にはないことである。

この気前で大分稼いで儲けだし、家は栄えたという。




2016年6月2日木曜日

巻6(4) 身代かたまる淀川の漆

この世の人の家業というものは急流にかけた水車のように休みなくはげみ、油断してはいけない。

川瀬の流れの速さも一昼夜に75里と見積もられるが、その水の行く末さえ限りあるものなのだから、人間の一生も長いようだが短くてだんだん顔に老いの波が立ってしまうのだ。

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その川波が立つ淀の里に与三右衛門という人が住んでいて、初めはささやかな家業を営んでいたが、自然と幸運が向いてきたのは、こういうことからであった。

ある時、降り続く五月雨の頃長堤も高波が越したので、村人は太鼓を打ち鳴らして人足を集めてこの水を防いでいたが、淀の小橋のあたりは普段でも淵をなしているので、今日の川の景色はことにすさまじく、阿波の鳴門を目の前に見るように渦が逆巻いていた。

その渦巻の中から小山ほどの黒い物がびゅっと浮き出し、征見ずにつれて流れてゆくのを、見ている人達は「鳥羽の車牛であろう」と指さして話し合っていた。与三右衛門は牛にしては大きすぎるのき気づいてこれを後から追いかけていくと、渚の岸の松に引っかかって止まったので近寄ってみると、年々ほうぼうの谷から流れ出してきて固まった漆であった。

これは天の与えてくれたものとばかり喜び、砕いて淀の上荷船で取り寄せ、密かに売ったところ、この一つの塊が1000貫目以上になり、この里の長者となった。

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これは知恵・才覚でなった金持ちではなく、自然と幸運にめぐり合わせただけの事である。おのずと金が金儲けをして、その名を世に広めただけである。

あるいは親からの遺産を譲り受けたり、または、博打業で勝ったり、偽物商いで稼いだり、金持ちの後家を見立てて婿入りしたり、高野山の寺の祠堂銀を低利で借り出して、高利で貸して儲けたり、人が知らないからといって、身分のいやしい者へ頭を下げて商売したり、といったことをして暮らしが豊かになるというのは嬉しい事ではない。

まともに働いて金持ちになる人こそ本当の出世というものである。

人のケチなのを笑うのはよくない。それは各自の覚悟による事である。

それどころか、手を出して人の物は盗まないにしても、そうした盗人の心と違わないような非道を行う人が、世間にまぎれて住んでいる。

たとえば借銀がかさみ、次第にやりくりに困り、いろいろ工夫を凝らしてみてもうまくいかずに、自然とその家をつぶしたとしても、少しも財産をごまかさず、細かく清算した上での破産ならば、たとえ損をしても債権者のほうで恨まないものである。

ところが、今どきの商人は自分の身代に不相応な贅沢をして、それもみな人からの借金でなかなって日を送り、大晦日の夕暮れになって驚き、計画的に倒産する用意をしたりする。

まず世間への見せかけを良くし、隣家を買い足して軒を続けて増築し、町内の人たちを舟遊びに誘い、琴を弾く女を呼んで女房の一族を慰め、松茸や大和柿の初物を値段にかまわず店先で買い取り、茶の湯は催さないけれども、茶壺の口切前ごろに路地を造り、下男の久七に明け暮れ叩き土させ、座敷の奥深く金屏風を光らせて、世間の人にうらやましがらせ、間もなく売り家になるのに千年も住むように思わせるために、屋内の井戸を木から石の井筒に取り換えたりして、人の物を借りられるだけは借り集めて、密かに田地を買って置いて一生の暮らしが立つようにしておき、そのほか子供の教育費まで取って置き、破産の際、債権者たちに提供する財産の総額を債務の35%に相当するように工夫して、債権者に渡すのであるが、初めのうちはいろいろ言っても後には皆根気が尽きてそれなりに済んでしまう。

すると破産者はその当座は悲しそうな顔つきをして木綿着物で外出していたが、はやばやとその時のつらさを忘れてしまい、寒風もこたえぬ重ね小袖を着て、雨降って地固まると言わぬばかりに、長柄の傘をさしかけさせ、竹杖をもったいらしくついて、紫の頭巾をかぶり、「小判は今が売り時か」などと相場を聞くなどは、まるで財産を隠匿しておいたことを白状しているようなものだ。

さても恐ろしい世の中だ。うかつに銀も貸せないし、仲人まかせに娘も縁づけられない。

念には念を入れてもとかく損銀が多いものだ。昔大津で、銀1000貫目の借金を世間に例のないことだと評判したが、近年は京・大阪では3500貫目、4000貫目の破産もさほど多額だという人もなく、その時代によって違うもので物事も大がかりになってきた。

以前とは変わって世間に流通する金銀が多くなり、儲けも多いかわりにひどい損もする。

商売のおもしろいのは今だ。せいぜい世渡りをおろそかにしてはならない。

ある長者の言葉に「欲しいものは買わず、惜しいものを売れ」という。この心がけで稼いで奢りをやめれば、よい結果を見るにきまったことだ。

だから商売の心がけは、自己資本の基礎をしっかり固めて気を大きく持つことが肝要である。

さてこの淀の人は都の栄華を見ならい、淀の大川を引いて泉水を作り、今日から多くの大工を呼び寄せて、絶えず回る水車を作らせたが、「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」という踊り歌の文句ではないが、この水車お客を待つのかくるくると回り、接客用の椀や膳を扱う音は伏見まで響き、浜焼きの香りは橋本・葛葉に伝わり、茶は宇治にしきりに使いをやってよい茶を取り寄せ、酒のしたたりは松の尾まで流れる有様で、この繁盛ぶりはいつまでも尽きる時はあるまいと見えた。

だがある時、この家に石清水八幡宮を勧請して安居の頭の儀式を執り行い、めでたいことが数々あったが、この行事はその頭である亭主の心掛けが大切で、何事につけても惜しいと思う心が起こると、たちまち行事は無効になるのであった。

と事が、この家が破滅するというお告げであったのか、大ガマの下で大束の葦が燃えしきったのを大勢の人が庭にいながら、これをさしくべる人が無かったので、その亭主がその燃え方を惜しいことだと思ったのがもとで、それから間もなくこの家は断絶し、その名だけを今でも踊り歌にとどめているのであった。




2016年6月1日水曜日

巻6(5) 知恵をはかる八十八の升掻

世の中が広いものだという事が今つくづく思い当たる。すべての商い事が出し尽くされたと言って、みんなが毎年悔むことがおよそ45年も続いている。

世間は不景気になったとよく言うが、無一文から商売を始めて立派に成功して一流町人になった人がたくさんいる。

米一石が銀14匁5分という安値の時でも、乞食はいるものだ。つらつら人の暮らし向きを見て見ると、その家相応にそれぞれ諸道具をだんだんとこしらえ、昔よりは一般にものごとが豊かになってきている。

もっとも家を破産させる人もいるわけだけれども、家を調えて繁盛させる人の方も多い。

その証拠には、京に限らず江戸・大阪の場末、空き地・野原まで少しの隙間もなく人家が立ちつづき、何をして暮らしているのかも分からないけれど、5人とか3人の子供に正月の晴れ着に綿を入れて着せ、盆には踊り浴衣もこしらえてやり、端鹿子の帯を後結びにさせているのも、ひとしお見栄えがする。

亭主は日雇い人足をしたり、あるいは釣瓶縄屋になったり、または子供だましの猿松の風車を商うなどして、ようやく1日まるまるもうかったとしても、37、38文か、45、6文、せいぜい50文までの仕事をするしかないかぐらいの働きの中で、一家4、5人が食べて、誰も寒いめにあわないのは、これみな母親の働きである。

同じ5人家族で一日に銀3匁5分ずつかかる家もあり、また6匁ずつかかる家もある。所帯の持ち方ほどひとによって違うものはない。

人の世渡りの仕方はさまざまに変わるものである。

夫婦共稼ぎでも暮らしかねているものもあれば、一方一人の働きで大勢を養っているとところもあるが、これなどは町人でも並々ならぬ出世というべきで、その身の利発さのたまものなのである。

すべての人間は目もあり鼻もあり、手足も変わることなく生まれついていて、皆同じなのだが、それなのに、高貴な身分の方々やいろいろな芸能者は別として、普通の町人は金銀をたくさん持っていることによって、世間にその名を知られるのである。

これを思うと若い時から稼いで金持ちとしてその名を世に残さないのは残念なことである。

家柄や血筋にかまわず、ただ金銀が町人の氏系図になるのである。

例え大織冠藤原鎌足の血筋を引いているにしても、町屋住まいの身で貧乏だったら、猿回しの身にも劣るのである。

とかく町人たるものは、大きな幸福を願い長者になることが肝要なのである。
金持ちになるにはその心を山のように大きく持ち、よい部下を抱えることが第一の条件である。
大阪の港にも、江戸へ回漕する酒を造りはじめて一門が栄えている者もあり、銅山に手を出してにわか成金になった者もある。

吉野漆の商売をして、人の知らない大金を貯えている人もあれば、江戸通いの快速船を造り出して、船問屋として名を上げたも人もいる。

家屋敷を抵当とする金貸しをして富貴になった人もあり、鉄山の経営を請け負ってだんだん金持ちとなる次第分限になった人もある。これらは近代のにわか成金であり、30年このかたの成功者である。

人の住むところは京・大阪・江戸の3都にまさる所はない。遠い地方にも分限者は大勢いるが、世間の噂にのぼらない者が多い。もっとも都の長者は金銀のほかに、世の宝となる諸道具を持ち伝えている。

亀屋という富豪の家の名物の茶入れ一つを銀300貫目でやはり富豪の回米問屋の糸屋が買い取ったことがある。

そうかと思うと、20万両の借金を年賦で返済する両替屋もある。

とかく都の出来事は規模が大きく、よそでは真似できない。

昔の長者が絶えると、新長者が現れて都の繁盛は次第にまさっていく。

だが、人は健康でその分際相応に世渡りするのが、大福長者になるよりも、なおまさっているのである。

家が栄えても跡継ぎがいなかったり、または夫婦別れをしたり、物事が満足にいかないのがこの世の習うべきことである。

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ここに今日の北側の里に、誰も知らぬ者もない3夫婦といって、人のうらやむ家族があった。

まず第一に祖父・祖母が達者であって、その子に嫁をとり、またこの孫が成人して嫁を呼び、同じ家に夫婦3組しかも幼馴染で夫婦になったというのは、世のためしもない幸せである。

この親父が88歳、その連れ合いが81歳、息子は57歳、その女房が49歳、その子が26歳、その女房は18歳である。

一生まったく病気をせず、とりわけ皆互いに仲むつまじく暮らしていた。

その上、身代の農民としての願いのままに、田畑・牛馬はもとより、多くの召使いが棟を並べて住み、年貢が免除されたのと匹敵するような多くの収穫をあげ、万事思いのままに暮らして神を祭り、深く仏を信心していた。

そのためにおのずからその徳も備わって、88歳の年の初めに、誰かが言い出して升に入れた米を平らにする升掻きを切ってもらったところ、大変な人気になった。

まっすぐな竹の林も切りつくしてしまうほどに京都の諸商人がこの升掻きを欲しがった。

これを使うものは商売に幸せがあるというので、いよいよもてはやし、3夫婦の升掻きと称して、俵に詰めた穀物を量ると思いがけぬ幸運に恵まれるのであった。

ある上京の長者はこの升掻きで白銀を量り分けて3人の子供に渡したという。

金銀もある所にはあるものだが、こうした長者の物語をいろいろと聞き伝えて、日本大福帳に記し、末長くこれを見る人のためにもなるに違いないと永代蔵に納めることにした。

時代もタイミングよく平和の時を迎えて、日本の御国も静かでめでたいことだ。