2016年6月9日木曜日

巻5(2) 世渡りには淀鯉のはたらき

人の家業は早川の急流に設けられた水車と同じく休みなく勤めるべきであるが、その流れの速さも一昼夜に75里と見積もられていて、数学者も年月の流れの速い世の中そのままであることは計算している。

大晦日が闇夜であることは、秋の月夜の頃からすでに計算上判りきっている事なのに、人はみなその時に直面してからこのことを驚き感動するのである。

前々から商人はそれを気にしながら商いをし、職人はそれぞれの細工をとり急いでやっているのだが、必ず日数が伸びて予定がはずれていくものなのだ。

また、売掛金の代金も例えば10貫目のものなら、3分の1として3貫目しか取れぬものと見込んでその範囲で自分のところの支払いをすれば世間に尻尾を出さず、きつねよりも上手に化けすまして世渡りが出来るわけだが、そのテクニックこそ人の才能というものなのだ。

商い上手な人が言ったことがある。「掛け売りの代金は取りやすいほうから集めるものだ。いつでもわけなく取れるものときめて残しておくと案外手間取ったり、あるいは留守だというので何度も足を運んで効率の悪いことになるのだ。

そもそも借金の取り立ては世の無常を観じて慈悲の心を起こしてはならない。

日暮れの寺の鐘の音が鳴っても、平然と鐘ならぬ金の袋に魂を打ち込んで、言葉使いは丁寧にして顔つきは恐ろしく見せ、台所の板の間の中ほどに腰掛け、煙草も吸わず茶も飲まず、おかみが笑顔で話しかけても聞こえぬふりをして、肴掛けやぶりや雉子に目をつけて、「今年の年末のお支度はお見事なことで、庭に三石の俵が積んであるのは上方米とみえました。いつもより早い餅つきで鍋のふたまで新しくなって、娘さんの正月小袖は紫の飛鹿子に紅裏をつけられて、これでこそ春の気分にもなれましょう。私どもはそれどころか、盆踊りのように胸が躍って落ち着かず、伊勢踊りの文句ではないが、松原通りを超えてこちらへ伺いましても、門飾りの山草一葉、数の子一つもいまだに買えません。せがれの去年の手織り縞の袷にせめて綿でも入れてやりたいと思いながら、それさえも出来ませんのにこちらの御様子を拝見しますと長者というのはまさにこういうものだと思われます。このような結構な節季仕舞いは江戸ではどうか知りませんが、少なくとも京にはありますまい。」とその家のよい事ばかり言って小うるさくプレッシャーを持ちかけていくと、他の支払いを差し置いても、自分の方から払ってくれるものだ。

寒い折だからといって掛取り先の家で酒を飲んだり、湯漬け飯を食うようなことは絶対にしてはいけないことだといったのである。

買掛金を支払う側からすれば、飯を食わせてやったんだから支払いは遅れてもよかろうと思いがちだ。また、いつも借り銭の淵を渡り慣れていて、何度か苦しい年の瀬を越した経験のある人が言っていた。

「世間の習いで掛買いをするのは互いに承知の上の事なのである。例えば新米1石銀60匁の相場の時でも、65匁の値段にして、しかも下等米を渡すものなのだ。油も1升銀2匁の時でも、2匁3分の値をつけて金利を含んで売られるが、このほか味噌・酒・薪に至るまで万事この通りにして掛け売りするのだから、これをまともに払っていては年中その商人に奉公しているようなもので、自分の家計が苦しくなるのは当然だ。

だから支払いの方は、少しの借金の方から支払い、たくさんある方は払わずにおくものである。手元に銀の貯えがあったとしても、大晦日の夜に入ってから渡したほうがよい。そうすれば掛け取りはたいてい根負けして、「残金は正月飾りをしまう松の内までには何とか払います」という言い訳を承知して、銭の相場を偽ったり、銀の目方をごまかすのも承知で構わず受け取りってしまい、借金を返してもらっただけなのに拾い物でもしたようなラッキーな気分がして、これを手に握りしめて門口に走り出し、「情けない。この家とは二度と商売はしない」と心の中で誓っても、商売人の習性として年が明けるとまたそれをけろりと忘れて、もと通りに商うものだ。

こうしたやり方は誰しもわざとやっているわけではないが、家計が苦しいところからついつい悪心が生まれてしまうものだ。」と。

ここに山城の淀の里に山崎屋といって、家業は親の代から油屋だった男がいたが、家職の油をしぼる搾り木のくさびを打つ槌の音を嫌い、不必要なほどにきれいごとを好んだので、この家の福の神は塵にまじって住んでおられたが、塵を掃きだす竹ぼうきに恐れをなして出て行かれたのであろうか、次第に家業が淋しくなり毎年持ち銀の残高が減り、自然と槌や碓の音も聞こえぬようになり、いつとなく灯し油も事欠くようになって、家運が衰えてしまった。

そうなってからにわかに昔の富貴を願って近くの宝寺にお参りして祈ったが、その甲斐はなく手と身ばかりの無一文となってから思案してみたところで、今更どうにも世渡りのしようがない。

淀の小橋の下に魚はいるが、「網なくて淵をのぞくな」のことわざ通り、用意がなくては魚を捕ることも出来ない。そうかといって、網にかけて阿弥陀を引き上げたという弥陀次郎の後を慕って出家する気にもなれないので、「ともかく身を捨てて稼いだら『遅牛も淀に着く・早牛もどちらも淀に着く』のことわざのように、いつかは目的を達し、淀の水車のように回り合わせがよかったら、再び家が栄えることもあろう」と思い、商売を替えて鯉・フナを担って京通いを始めた。

しかし、淀の名物の川魚だと言い立てて売りさばいたので、人にも顔を見知られるようになり、淀の釈迦次郎とあだ名して川魚の用がある家では彼の来るのを待つほどになった。

そしてその後は淀の里から手ぶらで京に出て行って丹波や近江の国から都へ運んできた鯉やフナを買い請けて、一日の間にたくさん売ったのだが、世間では淀の川魚はさすがに風味が格別だと評判して同じ鯉やフナなのに、他の魚屋のものは買わなくなった。

商人というものは何よりも信用を獲得することが大切なのだ。 その後は刺身を売って盛り売りを始め、5分・3分ほどの額でも注文に応じて調えて売ると、京は台所の事に細かいところだから、お客への御馳走をするのにもこれで間に合わせるようになるほど流行ったので、いくらもたたないうちに資産家になり、今度は金銀の貨幣を並べて両替店を出した。

たくさんの手代をかかえるほどに繁盛した。この家が繁盛しているときは、昔の鯉売りのことはいい出す人もなく、身なりもおのずから都めいて、上流の新在家衆の衣装をまね、油屋絹の諸織を憲法染めの紋付に仕立て、袖口には薄綿を入れ、それを3枚重ねにして小褄を高く取らずに裾長に着こなし、同じ憲法染めの羽織を上に着た姿はゆったりと見えて歴々の町人であるとは言わずとも知れた様子であった。

例えば公家の御落胤、または大名の血筋を引いているからといっても、伝来の剣を売り食いにし、運は天にあり、具足は質屋にありではまさかの時の役には立ちがたい。

ただ知恵才覚が大事だと言ってもそれが処世の役に立つかどうかなのである。

貸し借りの決まりをつける世間の総決算の時なので、一年の暮れほど恐ろしいものはない。それを油断して、12月中ごろ過ぎあたりから考えはじめるのでは手遅れだ。なにもあくせくする必要のない神社やお寺でさえ、正月に備えてご祈念の守り札やお年玉扇の用意をしたりするのだから、、ましてや職人や商人の家で、一年は13か月もあるかのようにのんきな顔つきをしていたのでは、貧乏の花盛りになるのはたちまちのことであろう。

世間並みの年越しをしてこそ、新年になっての心もちも良いものだ。それなのに医者の薬代は承知していながら払わず、丁稚に着せる布子は手染めの浅黄色に仕立てて着せるほどの切迫した家計では、いくら自分が主人なのだからといってもおもしろいはずがない。

京の町にも人さまざまの歳末の風景がみられ、年の暮れに初春の歌を案じているのなどは、さすがの今日の風俗ではあるが、こうした豊かなひとはまれで、大方は貧しく悲しい世渡りなのである。

鯉屋の手代が独立して小さな米店を出し、わずか5貫目の元手で大豆を粉にくだいてばらまくように、方々に少しづつ掛け売りをしてこれを暮れに取り集めるのであったが、小家がちなあたりの貧しい世帯の様子を見ると、人の世の悲しみを痛感するのであった。

もはや12月も28日、しかも小の月の晦日で明日が大晦日なのに、今日と明日とに支払いが迫った節季前のひとく忙しい時期の片手間に、下機で木綿を一反織っている家がある。それを織り上げて金にかえ、正月支度のためのもろもろの品も調えようとの算段なのである。

またある家に行くと、屑屋を呼び込んで鏡台の金具、銅網のネズミ取り、禁中熊手1本、爪の折れた五徳1つを取り集めて出したが、値段が折り合わず、屑屋は銭130文と値をつけただけで買わずに行ってしまった。

夫婦は人の聞くとも知らず、「貸銭のほうははじめから返すつもりはない。銭500が天から降ってくれないものか。それだけあれば年男になり、豆を播いてゆっくりと年がとれるのに」とぼやいている。

可哀そうに、かわいい盛りの娘が「今いくつ寝てから正月になるの」と聞くのを、「米のある時が正月だよ」と、にらみつける顔つきが恐ろしくて、門口から掛け金も請求することなく帰ってしまった。

また、ある家に入ると、いかにも言いがかりをつけそうな女が薄い唇を動かして、「お前さんのとこから米代の催促に再々の御使いを寄こしたが、借りるのも世の習いなのに、されむごい言葉使いで「首を引っこ抜いても今取って見せる」と言われたのを聞いてから、うちの亭主は震いがはじまって、いまだに枕が上がりませぬ。4匁5分やそこらの借金で首を抜かれるのは口惜しいことだ」と、大声を上げて泣くので、とやかく口論するのもわずらわしいので、「よくよく養生してください。命があったら春になってから相談しましょう」と言い捨てて帰った。

またある家に行くと浅黄色を千種色に染め直し、袖下に継ぎの当たった布子にお神酒を供えて喜び、「これはなんと丈夫な着物だろう。この17、8年の間も冬中は質屋の蔵にあったのが、ここへ戻って正月をするというのはまことにめでたいことだ」と言っているところへ行き合わせて、「勘定をしましょう」と言うと、18匁2分の勘定書に対して、銀包みの表に「1匁6分数一つ」と書き付け、しかも質の悪い銀貨を差し出して、「これはお前さんのところの支払い分として秤に掛けておきました。いやならいやで置いて行きなされ。」と言って猫の蚤を取りながら相手にしてくれないので、これもやむなく取らぬが損だと受け取って帰った。

それから、またある家に行くと、亭主は外出していて留守には器量も十人並みの美人な女房が髪も常よりは見た目もよく結い、帯もよそ行きの物に締め直し、「薄雪物語」や「伊勢物語」などの草紙を取り散らかし、大勢の掛け取りと一緒になって「春はどの芝居が流行るだろう」などと、さてものんびりとした有様であった。「こちらの御亭主はどこへ」と聞くと。「年寄り女房が気に入らぬと言って、私を置き去りにして行かれました。」と言って、ことさら気を引くように笑いかける。「それなら暇をとってしまいなさい。後の引き受け手は誰だ彼だ」などとふざけて、売掛けのほうは心の中で消して帰った。

人間が賢いように見えて愚かなものはない。

借り銭のある家には年末になるとさまざまな知恵を出し、悪企みをする者がいるから油断してはならない。

たとえば、いろいろなものを掛け売りするにしても、その相手とだんだんと親しくならぬように、平生用心するのが商人の秘訣である。

親しくなってよい事もあるが、それはまれだ。

内金を取って物を売るにしても、前からの貸し金の残りがかさむ時は、見切りをつけて棄てた方がよい。

それに未練をもって取引きを続けると、あとには大分の損をすることがあるものだが、皆欲のために先が見えぬからそうなるのである。

この米屋も現金売りで、俵なしに量り売りをしてうた4、5年は儲けが続いていたが、ある時西陣の絹織屋へ俵米を売りはじめ、前納分の代金を引き換えに納品する約束であったが、年々の未済の貸金が増え、勘定は合いながら回収できず、資金繰りがつかなくなり、あとには米をつく碓の音が絶えて、釣掛け升だけが残った。

とかく掛け商いには分別が肝心だ。