2016年6月7日火曜日

巻5(4) 朝の塩籠夕べの油桶

「こりゃこちらへ御免になりましょ。

鹿島大明神様の御神託の中に人の身代について「ゆるぐともよもや抜けじの要石、商い神のあらんかぎりは」と申す御詠歌がござりまするが、その心はすべてのなりわいの道は、稼ぐに追いつく貧乏なしとはこういうことでござる」と、鹿島の言触が言ってまわっているが、これを正直に受け取っておいて、一文の銭でも無駄にしてはならないのである。

昔、青砥左衛門が、たいまつで鎌倉の川に落とした銭を探したのも、世のお宝の朽ちすたるのを惜しんでの深い思案からである。

しかし、それは最明寺(入道時頼)の時代のことで、松・桜・梅を切って薪屋をしても、ぼろ儲けのあった時代の事である。

今は銀が銀をもうける時代であるから、なかなか油断しては世渡りは出来ない。

------------------------------------------------------------

ここに常陸の国に、その身代一代のうちに分限になった人がいて、10万両の金を持ち、その名もこがねが原という所に住んでいた。

その名は日暮らしの何某といい、棟の高い立派な家造りをしていて、人馬をたくさん抱え、田畑は100町を超え、家は栄えて何の不足もなかった。

下々の村人たちを憐み、慈悲の心が深かったので、この人は土地の宝だと村の草木までもなびくほどであった。

この人もはじめはささやかな笹葺きの家に住んでいて、夕げの煙も細々と立て、朝の米びつも乏しく、着物も春と夏との区別がなく同じものを着て、ひたすら実直に働き、夫婦もろともにつらい暮らしをしていたのであった。

朝は酢・醤油を売り、昼は塩籠を担い歩き、夕暮れは油桶を代わって担ぎ、夜は馬の藁沓を作って馬方に売り、若い時から一刻も安閑としていたことがなかった。

それで毎年の暮らし向きがよくなって、50余歳までに銭37貫文を倹約して貯えた。

この男は商売をはじめて以来、一銭も損をしたためしがなく、毎年利益を得たけれども、元手がわずかなことなので、金子100両になるのはなかなか難しかったが、ようやく100両にしてそれからしだいに東長者といわれるほどになったのである。

その上、男の子ばかり4人もあって何の不足もない身の上であった。

ここは江戸からほど近い所なので、この人が頼もしい人柄であることを聞き伝えて、厳しい浪人の取り締まりのあった時代ゆえ、長い浪人暮らしで身の置き所のない者たちが、この人にゆかりある方からの紹介状をもらって、このこがねが原の里に行ってひたすら庇護を頼んだところ、この男は思いやりが深い人だったので、藁葺の庵を貸し与え、扶持米まで分け与えた。

そののちには7、8人にもふえて小うるさいほどであったが、浪人の奉公口がなかなかない時世なので、皆仕方なくこの里で月日を送っていた。

この中に森島権六という男がいたが、少し教養のある者で学識があったので、人の道を忘れず、このように厄介になっている御恩返しにせめて何かお礼をしなくてはと思い、4人の子供に4書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を授けたのは感心なことであった。

また木塚新左衛門という男は、次男をそそのかして吉原通いの色遊びの手ほどきをして、だいぶの金銀を使わせた。

宮口半内という男は、小刀細工が上手なので、卯木で作った耳かきやネズミの彫り物を工夫し、明け暮れ油断なく精を出して働き、それを江戸の通り町に送って売りさばき、5、6年のうちに銀を貯めたのは、こうした落ちぶれの身の上にありながら、大変な才覚を発揮した男だといってよい。

また、大浦甚八という者は小唄や小舞に夢中になり、後にはおのずから正確に拍子も飲みこんで、人のするほどのことで習い覚えられないものはなかった。

また、岩根番左衛門という人は、ひときわ目立つ大男で、髯もじゃで目つきがするどく、弁舌の優れた人物がなる武家の御使番にしても300石ほどの値打ちがあると見えた。ところが、この人は風采に似合わぬやさしい心があって、仏の道を信仰し肌身を刺す蚤を殺さず、足元のミミズを踏まず、生来の正直者ではあったが、それにしても顔つきだけは恐ろしかった。

赤堀宇左衛門という男はこのような身の上になっても鉄砲を残して置いて、無益な密猟をしたり、野山の狼を殺したり、鞘が触れたといっては喧嘩をし、武勇を誇っての口論をしたりして、一年中わがままに振る舞っていた。そして、人それぞれの心にこのような違いがあるのが浮世の常なのだと思ってその浪人たちをかくまっていた主人は、この善悪を問いたださずに放っておいたのであったが、公儀の浪人改めが行われた際に皆そこを追い出されてしまった。

その後つらつらと世間の様子を見ているとこの浪人たちがいろいろな身の上になってゆくさまがおもしろい。

書物好きの権六は貫だの筋違橋で太平記の勧進読みとなり、好色な新左衛門は十面新吉と名を呼ばれて浅草の田町で茶屋をはじめて日頃達者な口三味線が物をいって太鼓持ちとなった。

細工上手の半内は芝の神明神社の前で大道に渋紙を敷いての小間物売りをし今でも昔を忘れずに編み笠姿なのがおかしい。

音曲好きの甚八は坂東又九郎の一座に入って、ようよう食うだけの給金で抱えられ、朝から晩まで「ごもっとも!」というセリフだけの端役に使われ、役者稼業の道にすっかり落ち着いている。

浪人しても武士顔をやめなかった宇左衛門は願いのままに馬に乗る身となり、供に十文字槍を持たせ、以前の知行どおり500石取りの侍に返り咲いている。

また後生願いをしていた番左衛門は、いつしか墨染の衣を着て、その大きな姿のままの芝の大仏のほとりに住んで、我とわが心を責めながら一心に責め念仏を唱えていたが、それは返すがえすも口惜しい身の行末であった。

かつては皆知行まで取った者でありながら、死ぬに死なれぬ命なので、このように落ちぶれたのである。

「これを思うと、めいめいの家業をおろそかにして諸芸を深く好んではならない。これらの浪人たちも日頃好きな道で世を渡る身の上となってしまった。人にすぐれて器用といわれる事は必ずその身の仇となるものだ。公家は和歌の道を、武士は弓道の道をはげみ、町人は算用をこまかにして天秤の測り方を間違わぬようにし、手まめに出納簿を付けるのがよい」とこがねの里の長者は大勢の子供に言い聞かせたのだった。