2016年6月4日土曜日

巻6(2) 見立てて養子が利発

日本では商い口といって、商人が「儲けは無しだ」とそらぞらしい誓文を唱えると、客はこれに気をゆるしてなんでも買い求めるのが世間のならわしである。

神田明神の前に氏素姓の立派な浪人が隠れ住んでいたが、年も家に杖つくころと言われる50に近いので、もうそれほど仕官の望みも持たず、小者を一人使って一生過ごすだけの貯えがあるところから、世のなりゆきにまかせて気楽に暮らしていた。

けれども、無為徒食の身では世間の口がうるさいので、瀬戸物を見せかけばかりに並べて置き、値段を聞く人があると100文の物を100文と掛け値無しに答えるばかりでこれを値切っても負けることがなかった。だから、店開きをしてからすり鉢9つ、肴鉢13、皿45枚、天目茶碗20、トックリ7つ、油差し2つあったものが、3年余り一つも売れなかった。

これを思うと商い上手という事はやはり必要な事なのである。

そこで、一年中の商人の売り口上としての空誓文の罪を、10月20日の恵比須講でさらりと祓うという誓文払いの行事があるわけだ。その日は、商人たちはすべての仕事を休んで、自分の身代に応じていろいろな魚や鳥を買いととのえ、一家中が集まって酒をくみかわし、亭主の作り機嫌に、奉公人も調子づいて、小唄や浄瑠璃をうたったりするし、江戸中の寺や神社や芝居、その他の遊び場所も大変繁盛するのである。

上方(京都)と違ったところは銀貨のないことで、一歩金の花を派手に撒き散らすことである。

銀とは違って秤がいらないのでこれほど便利なものはない。江戸の人たちはみな太っ腹で、いろいろな買い物をけちけちせずに大名風にやってのけ、見事なところがある。

今日の恵比須講にはどこの商家でも競って魚を買いあさるのだが、この頃は冬なので自然海も荒れる季節なのでいつもより生魚が少なくなり、こと鯛になると一枚の代金が1両2分ずつもして、しかもそれが尾から頭までの長さが1尺2、3寸の中鯛なのである。これを町人の分際で家庭料理に使うということは、いまお膝元の江戸に住む商人であればこそできることなのである。富豪の多いはずの京の室町では鯛一枚を銀2匁4、5分で買い取り、それを5切れに分けて秤で量って受け取るなど、気前の良い江戸に見比べてみると、いかにも都のケチなことがおかしい。

ここに江戸通り町中橋のあたりに銭店を出して、手代を大勢使っている人があった。

日頃は倹約第一の人であったが、今日は1両2歩の鯛を買って恵比須講の祝儀を催したところ、一同は何心もなく夕飯を祝っていただいた。ところが、大勢の若い奉公人の中に最近伊勢山田の者だといって十年の年季で雇った14歳になる丁稚がいたが、据えられた膳を2、3度おしいただき、飯を食わぬ前に算盤をはじいて、「お江戸に来て奉公をしたからそここんな贅沢な御馳走にもありつけるのだ」とひとりつぶやいて喜んでいる。

それが主人の目にとまって、そのわけを尋ねられると「それでは申し上げますが、今日の鯛の焼物は、値段が一枚1両2分で、背切りが11切れでございますから、一切れの価値が銀7匁9分8厘ずつに当たります。小判は1両が銀58匁5分の相場と致しました。そのように計算してみますと、まるで銀を噛むようなものでございます。塩鯛や干鯛ももとは生なのですから祝う心は同じことです。生鯛をいただいた今日の腹具合もいつもと変わったことはありません。」と言った。

主人は横手を打って感心し、「なんとまあ利発者であろうか。分別盛りの手代どもでさえなんのわきまえもなく、箸は右の手に持って食うものとだけ心得て、主人の恩も知らないでいるのに、まだこの若さで物の道理を知っているとは、天のおぼしめしにも叶う者だ」とすっかり気に入り、親類中を呼び寄せて一部始終を語り、「この者を養子分にしてわが家に譲ることにしたい。」と一途に夫婦とも思い込んで、伊勢の親もとへ相談する人を遣わすことにした。

その時、この丁稚はその話の席へ膝を進めて、「まだお馴染みもないうちにそのような思し召しのほどはかたじけないことです。けれども国もとへの御使いは御無用でございます。話がまとまりません時は、その費用だけ無駄になります。ことに御身代のことにつきましては「世は張物」とも申しますから、表向きのやりくりがうまくいっているだけで、たくさんの借金があるかもしれません。そのあたりをよくよく見届けないうちに養子の契約はできません」と言うので、主人はなおこの言葉に感心して、「お前が不安に思うのももっともだ。だが、わが家では一文たりとも人の物を借りたことはことはない」といって毎年の勘定帳を見せると、「有銀が2800両」と記してあって、「このほか金子100両、のちのちの女房の寺参り金のために、この5年前に別にして置いた」と言って、包みのまま封じ目に年号月日を書きつけてあるのを取り出して見せた。

丁稚はそれを見て「さてさて商い下手なことです。包んでおいた金子は一両も増えはしますまい。働きのある小判を長櫃の底に入れて置いて、長い間世間をお見せにならないというのは商人気質とはいえません。こんなお心掛けだから大分限の大金持ちにもなれず、頭の禿げるまでこのお江戸にいながらやっと3000両の身代。これで大きな顔をしていらっしゃる。私を養子になさる以上は4、5年のうちに江戸で3番目以内の両替屋になって見せますから、それを長生きしてご覧になってください。

まず御夫婦は今日から毎日お説教のある寺に参詣なさって、その帰りに納所坊主に近づいて、お賽銭をあるだけすべてお買いなさい。そうすれば、世帯と信心のどちらのためにもお得になります。お供の丁稚は道中の体裁のためだけに連れてゆくので、あとは手あきなのですから、浮世山椒を仕込んで小袋に入れて行き、お談義のはじまらぬ先に、人々の眠気覚ましにこれを売るのがよろしい。それにまたお供を連れない参詣人たちの笠・杖・草履を説教が終わるまで一文ずつで預かるのがよい。」と指図してやったところ、丁稚は毎日銭儲けしながら、主人の供をつとめるようになった。

このように何事にも気を付けて後には人のおよばぬような知恵を出して、船着場の船頭どもの便利を計った行水舟を工夫したり、刻み昆布をつくって秤にかけて売り出したり、瀝青塗りの油土器、皺紙の煙草入れを作ったり、とにかく他の人のしないことで、15年もたたぬうちに3万両の分限になり、霊厳島に隠居して、二人の養い親に孝行をつくした。

いかに繁盛するお江戸の地だからといって、人並の働きで長者になることはできないものだ。三文字屋という人が昔、懐中合羽を発明しそれから馬道具を仕込んでしだいに繁盛し、国産の絹織物はもとより、唐織物まで仕入れて、毛類は猩々緋の100間続きでも、虎の皮1000枚までも用意し、黄羅紗・紫羅紗など京の都にもないものを持つ大金持ちと評判され、中橋の9つ蔵と言われて誰も知らぬものはいなかった。けれども、こういう人は特別に一代で分限になった人であって、たいていは親の遺産がなくてはずば抜けた富豪にはなれないことが多い。

京の室町のお歴々の息子が何の商売もしないで両替屋の善五郎などを頼んで多額の金を貸して生活していた。この利息が毎日235匁ずつの勘定で入っていたのに、どのように使い果たしたのであろうか、15年のうちにその財産をすっかりなくしてしまい、江戸に稼ぎに下った。この男の器用さといったら、謡は350番憶え、碁は名人に二目置くだけ打てるし、毬は最高位の紫の袴を許され、楊弓は金看板を上げられるぐらいの腕前で、小唄・浄瑠璃・茶道・軽口・枕返し・連歌・俳諧・香道の達人であり、何一つとして出来ないことはないのだが、肝心の世渡りの業を知らない。

あてもなく江戸を下って奉公しようとすると、「銀の見分けが出来るか?算盤勘定が出来るか?」と問われると、いまさらに困ってしまい、諸芸のこともこのときの用にたたない。そこで再び京都に上って「とかく住みなれたところがよい」と長年親しくしていた友達を頼み、謡や鼓の指南をして、ようよう身一つだけは養い、普段は質に入れて不自由している着物を、正月の謡初めの時の収入で請け出すのだが、またすぐ質に置いてしまうという有様である。「こんな有様で通るだろうか?人間の身には病気という事もあるのに」とさすがに老後のことを案ずるのであった。「もっとも生きるだけなら60年でも送れるが、世間体を保っては6日でも暮らしにくいものだ。

このことを考えると、それぞれの家業に油断してはならないものだ」とある長者が語った。