2016年6月27日月曜日

巻1(4) 昔は掛算今は当座銀

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人のやっていない現金商売のアイデアをシステム化させると、お金がやってくるというお話

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昔と違って人の身なりもぜいたくになってきて、特に妻や子供の服装を着飾るのは罰当たりレベルの身の程知らずだ。

公家・貴人でも京織りの羽二重で、武家は黒羽二重の5つ紋なのにもかかわらず、近年は都会人は新しく工夫して小紋模様やももいろ染め、鹿子染めと派手になった。

そのせいで、娘が結婚するときや嫁に金がかかるようになって財産が減り、家業に影響が出るようになった人も出ている。

遊女が着飾るのは商売のためであって、一般の夫人は花見・もみじ見・婚礼以外は目立つ衣装は必要ないのだ。

あるとき、京都室町の片脇におしゃれな橘の紋の看板をつけた、流行り衣装の仕立てに腕利きの職人をそろえた和服製造店があり、お客さんが絹・綿を持ってきて仕立ての注文が殺到した。

仕立て糸を縫ってアイロンをかけて着物が出来上がるのを待っているお客までいる。昔はこんなことはなかった。さらには高級中国製の服を普段着にしている奴までいる。

こういう時期に出された衣服制限法は日本のためだとありがたく思う。商人が上等のシルク服を着ているのは見苦しいことである。紬のほうが身分にふさわしいく見た目もよい。

だけども武士は威厳を持つべきだから、部下がいなくても町民並みの服装ではダメだ。

近年江戸は平和になり、江戸城本丸から常盤橋につながる本町の服屋は、京都が本社にあり、支店長や課長がお得意先のお屋敷に直接うかがい、口達者で凄腕の腕利きばかり。知恵も才覚もあって商売に油断がない。

計算も得意で売り上げの回収は確実に行い逃げられるようなへまもしない。利益のためには生きた牛の目をえぐるほどの速さで行動し、呼ばれれば虎ノ門を夜中でもうかがい、朝は日が昇る前から起きて仕事をし、日が暮れてもお得意様のご機嫌を伺うほどの気合の入れようだ。

今は武蔵野エリアが儲かるといっても、以前と違ってもはや隅から隅まで行き渡っているのでぼろ儲けは出来ない。

昔は婚礼や江戸城の新入社員入社シーズンでは、受け持ちの支店長が江戸城の調達部の好意で一儲けしたものだが、いまは入札にさせるようになったのでわずかな利益に群がって互いにじり貧になり、世間体でお付き合いしている状況となっている。

また、多額の売掛金は数年未払いとなっており、その儲けは京都の両替屋の利息よりも少なく、為替の支払いにも困っている状況ではあるが、かといって今までのお付き合いもあるので閉店するわけにもいかず自然に小規模な経営になってしまうのである。

結局商売が合わないから江戸店だけは残るけれども損害は何百貫にもなってしまい、大損しないうちに商売替えして経営を立て直そうと思案する実機に来ているのだが、これまたうまい商売の道があるものだ。

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三井八郎右衛門という男は、豊富な資金をもとに昔の慶長小判と関係のある駿河町で間口9間、奥行き40間のいままでにない広い店をオープンさせ、すべて現金売りで売掛なしルールのデパートのような現金商売の店とし、40人のエリートを自由に操って一人に一種類の品物を担当させた。

例えば金襴類に1人、日野シルク・郡内シルクに1人、羽二重服に1人、沙綾服に1人、紅絹服に1人、麻の袴に1人、毛織服に1人といった具合に手分けして売らせて、おまけにベルベット調の布1寸四方でも、小さい大きさの緞子生地でも、大きさにこだわらずに自由に売り渡した。

特に出世などで部署が内定した侍が上司にお目見えする際の礼服や、急ぎの羽織などは、侍の使いに待たせておいて、数十人ものお抱え職人が即座に仕立てて渡した。

そんな感じで商売が繁盛し、毎日平均金150両の売り上げを上げたという。

利便性を追求するというのはこういう店のことなのだ。

この店の主人は目鼻手足があってほかの人と全く変わらないのに、家業のやり方にかけては人と違って賢かった。大商人のお手本であろう。

いろは順に並んだ引き出しに中国や、日本の絹布をたたんで入れておき、そのほかにも例えば姫の手織りの蚊帳や、阿弥陀如来のよだれかけ、朝比奈が着ていた舞鶴の家紋のある布、おしゃれな達磨大師柄の座布団、林和靖がかぶった頭巾、様々な時代の絹などなどちょっと話を盛ってはいるが、あらゆるものをととのえ、ないものは無いほどの品ぞろえであった。

また、あらゆる品の在庫管理までしっかりしていて、ほしいものがすぐに出てくるのは、まことにめでたいことです。